仏道とAI/受動と作用
AIが発達し、次第に、人間がやるものとされていた「労働」をAIが代わって処理するようになってきていることに伴って、そのうち、AIが人間にとって代わるのではないかとの危機感の下、AIにはできない人間しかできないことを探すことなどといった人間像の見直しに対する問題意識が高まってきています。
その議論の中では、AIを人間の敵だと見立てて、重箱の隅をつつくように問題点を無理気味に見つけ出して(あるいは、作り出して)、人間のプライドを守ることで溜飲をさげるような言説が多いように感じます。
しかし、このような対象化とひていに対しては、仏道者として、警戒しなければならないと思います。
すべてはあるべくしてあり、起こるべくして起こるものだからです。
「生命の実物そのものとしては「ただかくの如くある」というよりほかはありません。そうです。自己の生命の実物とは「ただかくの如く生きる」そのことです。」
(内山興正『坐禅の意味と実際・生命の実物を生きる』29頁)
AIは、人間の思考のプロセスを参考にして作られたとよく言われます。
そうすると、AIというものを考えることを通して、逆に、人間の真実が見えてくるところがあるのかなと思います。
AIには、心があるかどうか、ということがよく話題になります。
たとえば、最近、大きな駅や公共施設で、大きな画面に人間を模した映像(多くは萌え系の女性の映像)が映し出された上、人間の声を関知して、会話をするように、道案内をするAIの装置が置かれています。
今は、まだたどたどしいところがありますが、これがもっと高度化してスムーズなやりとりをして、的確な回答をするようになるのではないかと思います。
しかし、AIが、どんなに人間との会話のやりとりをスムーズになっていっても、AIは、情報の入力を受けて、「機械的に」反応して、出力するだけであり、心はない。
以上のようなことがよく言われます。
AIも人間も、外部情報の入力に対し、反応を出力する点では同じですが、「心」の有無に違いがあります。
このことは、人間が
「外部情報の入力に対し、反応を出力する」
存在であることを、改めて気づかせてくれます。
名を呼ばれれば応える存在
禅の世界では、しばしば、人間が外部情報の入力に対し、反応を出力する存在であることが強調されます。
「実在は『おい』と云って、『はい』と応えるものを覚知するところにある。この覚知或は承当の在るところが佛性である。」
(鈴木大拙『禅百題』27~28頁)
人間が、入力に対し、出力であるシステムであることからすると、重要なことは、適切な出力がなされることであって、入力から出力までのプロセスは重大な問題ではないということになります。
それは、コンピュータやスマートフォン、ひいてはAI等に対する私たちの態度と類比的にみればわかることです。
私たちは、コンピュータやスマートフォンを使いますが、その機能の詳細なプロセスをわかって使っている人は、ほとんどいないでしょう。
今、Bluetoothでスマートフォンと接続されているキーボードを使って、この文章を打ち込んでいます。
スマートフォンの画面には、文字が次々と表示されますが、私がわかっていることは、(情けないことに)キーボードを通して、文字を打ち込むと、それにしたがって、スマートフォンの画面に文字が表示されるということで、キーボードの中で、キーボードとスマートフォンの間の空間の中で、そして、スマートフォンの中で、一体何が起きているのかまったくわかっていないのです。
重要なことは、きちんと予期した通りの機能が発揮されること、すなわち、適切な出力がなされることです。
普通の人間にはわからないAI等の筐体の中での状況が人間の「心」というものでしょう。
私たちの感覚器管から入ってきた情報が脳で処理する過程で「心」の現象が現れます。
「心」は、情報を参照しながら、当該状況下での可能な行為の利害得失を判断します。
その中で、私たちの「感情」が現れます。
「喜怒哀楽」……そして、不安、怠惰。
私たちは、その場面で、なすべき行為、すなわち、何を出力すべきなのかをわかっていても、それができないときがあります。
仕事や勉強をしなければならないけれども怠けてしまうなどといった場面が典型的でしょう。
そこで、心の制御をしようという問題意識が生じます。
確かに、只管打坐をすると、扁桃体の活動が低下して、不安感が払拭されるとともに、テストステロンが分泌されて気分が前向きになれます。
結果、出力がしやすい状態になるでしょう。
とはいえ、余り、「心」を見すぎてもいけないのではないかと思います。
私たちにとって重要なことは適切な出力をすることであり、出力のプロセスではありません。
私たちは、「よいこと」をしようとするときに、自分自身の「利己性」に気づくときがあります。
誰かに認めてもらいたい、誉めてもらいたいという利己性に気づくときがあります。
潔癖性的な感覚ですと、このような「利己心」も完全に払拭しなければならないと思ってしまうかもしれません。
しかし、私たちにとって、重要なことは、適切な出力をすることであり、出力をするときにどのような思いを持っているかではありません。
涌き出る「思い」自体を制御することは困難です。
なぜなら、私たちの意思は、私たちの肉体を制御できますが、意思自体は、意思から生じるものではないからです。
制御できない「思い」をなくそうという潔癖主義に陥ると、結局、私たちは、出力をする前に動きがとれなくなってしまいます。
「心」は単なる現象にすぎません。
私たちは、適切な出力ができればよいのであり、「心」がどんな状態なっているかは問題ではないのです。
「心」を見てはならない、ということは、他者の心も同じでしょう。
私たちは、他者から何かされたとき、それが私たちに利益をもたらしてくれるようなときであっても
「本当は、こんな意図ではないか?他者の私利私欲ではないか?」
などと疑心暗鬼に陥ることがあります。
勝手に妄想を膨らませ、勝手に悪意を抱きます。
実際、他者が客観的には私たちに利益をもたらしてくれる行為でも、利己的な動機でやっている場合もあるでしょう。
しかし、それが重大な問題なのでしょうか。
私たちにとって、重要なことは、他者が客観的によい出力をしれることであり、他者がどんな心でやっているかではないのです。
それは、AIがどのようなプロセスで出力をするかを私たちが問題としないのと同じことです。
私たち自身の「心」がフィクションであるのと同様、他者の心もフィクションなのです。
「荒波は船をくつがえすことがある。(略)波は荒いともやわらかいとも思わぬ。水に自性なし、我なし。ただ風の縁に従うての出来事ぢゃ。波はいくら高くとも波を相手どりて怒(いか)るものもない。人がわずかに打てばたちまち鬼と化す。波を打つと同か異か。労して功なしぢゃ。波を見て水の大なるを知らぬ。この波この怒りが大海水より大宇宙より来る一現象なりと知れば、一波を以て大海水を買い、 一怒を以て大宇宙を占領することも出来るはずぢゃ。」
(飯田欓隠『通俗禅学読本』53頁
私たちの「心」は、世界から肉体を区分し、この肉体をして世界から作用を適切に受動した上で、世界に対し、作用を及ぼすためのフィクション。
そして、他者の「心」もフィクションであり、とらわれるべきものではないはすです。
孫引きの引用ですが、仏教における「心」の捉え方に関する次の記述には納得のいくものがあります。
「ユヴァル・ノア・ハラリによる世界的ベストセラー『サピエンス全史』には、仏教に関する興味深い記述がみえる。
(略)
ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。(略)ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求もやめることだった。」
(佐々木閑・宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』3~5頁)
仏道の行は、心を制御する上で、有益な方法です。
私自身、只管打坐を始めるようになってから、トラブルに対して落ち着きやすくなり、というか、かなり楽しめるようになり、考え方の違う人との交遊がしやすくなり、芸術作品や自然を見るのが楽しくなり、物事に前向きに取り組めるようになったり、
悩むことが苦にならなくなったりなど様々なことよいことがありました。
けれども、不安がまるでなくなったかといえばそうではないし、イライラすることがまったくなくなったかといえばそうではありません。
厳しい見方をすれば、私の心の問題は、「完全には」解決していないのです。
とはいえ、神経質になって、心の問題を「完全に」解決する必要があるのでしょうか。
重大なことは、心が適切な出力の上で障害となる事態がなくなることであり、心の問題が完全になくなることではないのです。
心の問題を完全に払拭しようとする。
何らかの形で「悟り」、「解脱」、「見性」などという「完全な心理状態」を求めようとすると、突如、困難に突き当たることになります。
心の問題の完全な消滅は、極めて困難であり、おそらく、私たちのほどんどが一生かかっても達成できない目標でしょう。
そうなると、「心の問題の解決」に熱中してしまい、肝心の適切な出力をすることなく、人生を終えることになります。
「悟りが大事ではない、ということではない。しかし、それは禅において重視しなければならないところではない」
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
11頁)
私たちがAIに期待することが、適切な入力に対し、適切な出力にすぎないことと同様、私たちは、受動したことに対し、適切に作用を及ぼしていけばよく、心の問題は重大な問題ではないのです。
AIについては、否定的な議論もありますが、私たちが、なすべきことは、どんなに時代が変わろうとも
慈悲
です。
慈悲を実践する上で、偏見にとらわれず、活殺自在の活用をする。
AIも活用すべきであると同時に、人間が、受動し、作用する存在であることを改めて思い起こさせてくれるありがたいもののように思います。
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