一切皆苦の理由
荒野に立っている。
何かよいものがないかと、素手で周りの土を掘り返すが何も出てこない。
掘っても、掘っても、探しても、探しても何も出てこない。
疲れて、爪に挟まった土を見る。
また、何かよいものがないかと土を掘り返す。
やはり、何も出てこない。
得ようとして、得られるものは何もなく、自分がこの荒野に立つ意味は何かを問う。
まるで価値がない。
とはいえ、死ぬ勇気もない。
何か得られないか掘り続けるのも空しい。
だから、何もせずに、じっとし続ける。
荒野の中でいつも何か得たいと探し回るような考えだけでいると、そのうち、生きているか、死んでいるかもわからないような生き方が正しい生き方だと思い込むようになる。
発想を変える。
与えられる前に、まず、与えてしまう。
荒野から何かを得ようとするのではなく、こちらから荒野に与える。
荒野に種を撒き、水を与える。
得ようとするのではない。
与える。
すると、荒野に花が咲き乱れ、世界はこんなにも美しく豊かであったのかと気づく。
くすんだ一切皆苦の世界に見えるのは、世界に与えていないからである。
いつも物欲しそうに世界から何かを得ようとしているからである。
世界は自分と別にあるのではない。
世界は自分とつながっている自分の庭なのだ。
自らが世界の主人として、世界を愛し、きちんと手を入れなくては、いつまでも荒れ果てたままであることは当然だ。
私達は、世界という庭を愛し、どのようにすれば美しい花園となるか創造力を働かせ、世界という庭の養生をしなければならない。
(注意しなければならないのは、私達が自然と成長するということである。したがって、私達とつながりあっている世界も自然と成長するものであり、往々にして、変に手を入れるのではなく、暖かく見守る方が何よりの養生となることが多いことである。「毒親」と言われる例を想起する。家族、とりわけ、里子を含めて子供を持つことは、世界を養生する何よりの訓練であり、世界を養生することそのものであり、それ自体喜びである)
自分が世界の主人であるとは、横暴な専制君主となることではない。
世界の庭師として、世界を愛し、可能な限りの創造力と労力を払って、世界を美しく養い、育てることなのだ。
利己主義者は、手元にない未来の幸福の獲得と、その裏返しである将来の不幸の回避しか見ていない。
幸福を目指すということは、現在は、その幸福を手にしていないという観念を前提とする。
不幸を回避するということは、現在は、どんなに幸福な状態であっても、その幸福が失なわれる可能性があるという観念を前提とする。
したがって、幸福の獲得と不幸の回避を目指す人の精神世界は、幸福を手にしていないという不満と、不幸に見回れるかもしれないという不安とが継続するだけだから、人生は、いつも暗い。
だから、利己主義者の人生は、どんな努力をしても暗いままであり、世界は、そのまま苦界なのである。
一切皆苦などという言葉に共感する人は、そもそもが利己主義者、とりわけ酷い利己主義者なのである。
得ようとするのではなく、与える。
与えられる前に、まず、与えてしまう。
世界に養われるのではない。
自分の側から世界を養い、育ててやるのだ。
主体的に養生し、手を入れれば、世界という荒野は、豊かな花々で満たされる。
与えれば確実に変わる。
これは、冷暖自知するしかない。
ーー利己主義者は、悪い人ではない。
幸福の獲得と不幸の回避を目指しながら、際限のない不幸に苦しみ続ける、とりわけ不幸な人なのだ。
だから、私達は、不幸な人たちを救うために、幸福を目指すことによる不幸の連鎖から抜け出す道を示さなくてはならない。
(20200212大幅に加筆)
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