坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

「輪廻」という「真理」?=上座仏教の神秘主義的性格

 坐禅を始めてから、落ちつけるようになると同時に、積極的に物事に対処できるようになるなど、日常が手堅くよくなってきたことから、坐禅を行とする禅や仏教について学んだり、実践する中で、上座仏教に興味を持ち、上座仏教の勉強会にも行くようになりました。

 上座仏教の実践をする人たちとかかわりあうようになってから、上座仏教の世界では、「輪廻説」というものが本当に重要な教義なのだとされているのだと感じるようになりました。

 1990年代にオウム真理教の信者が社会との軋轢を起すようになり、果ては毒ガステロをするまでに至ったことが社会問題となった時には、その信者の人たちの中に、宗教と相反するような科学を学んだ理系の人たちが少なからず入信していたことが困惑とともに話題となりましたが、上座仏教の実践をしている人たちとの勉強会に参加していると、メーカーの技術者の方や、SEをされている方などが、真顔で輪廻について語り、うっかり、それを否定する発言をした人(私なんかもそうですが)に対しては、「実際に、死を体験していないのだから、『輪廻をしない』ということも思い込みに過ぎないのではないか。」などと粘り強く説得するなどということもままあり、社会的に無害であるか否かの違いはあっても、やはり、オカルト的な要素がある「宗教」なのだなあと思っています。

 私が上座仏教に興味をもつようになった切っ掛けは、日本における上座仏教の指導者の中でも特に著名なアルボムッレ・スマナサーラ長老の著書を読んだことがきっかけでした。

 

「お釈迦さまは『理性ある人が仏教を理解する』とよくおっしゃいます。(略)宗教には信仰が必須条件です。まず信仰する、それから学ぶ、という順番です。
 しかし仏教では、信仰は邪魔です。障害です。まず学ぶ。批判してみる。比較してみる。考察してみる。そして納得する。納得してから、実行してみる。結果が出たら、教えられたとおりに幸福になったと、苦しみは乗り越えられたと、実感するのです。そうしてからやっと、ブッダの説かれた教えが真理であり、そのまま事実であると確信するのです。残炎ながら信仰に出番がありません。
 ですから、仏教には信仰ではなく、理性が欠かせないのです。」

アルボムッレ・スマナサーラ『これでもう苦しまない』45頁) 

 自分でも記憶があやふやになっているのですが、最初に読んだ本がこの本でした。

 それまでにいくつかの仏教関係の本やネットの情報を見て、スマナサーラ長老の名前だけは知っていて、たまたまネット通販で安く売っているのを見かけて買いました。

 「信仰ではなく、理性だ」

というところに特に惹かれました。
 
 引き続いていくつかスマナサーラ長老の本を買いました。



「お釈迦さまが説いたのは、「真理」です。真理は、誰が語っても、いつの時代でも変わらないものです。お釈迦さまは真理を提示して、「自分で調べなさい、研究しなさい」という態度で教えたんです。「私を信じなさい」とは、まったく言っていません。
(略)何でも読めるし、何を勉強しても批判されるわけじゃない。ただ自分が確かな気持ちを持っていればいいんです。
(略)まだ仏教が宗教かどうかはっきりしないんです。」

(アルポムッレ・スマナサーラ養老孟司『希望のしくみ』18頁〔スマナサーラ発言〕)


 
 やはり、信じるのではなく、「確かめる」ことを強調することに惹かれました。

 上座仏教の実践を始めた人たちも、「信じる」のではなく、「確かめる」ことが強調されるので、「宗教」とは違っていて「真理」を語ろうとするものだと考えてそこに魅力を感じたのではないかと思います。

 そう考えて、上座仏教に興味を持ち、上座仏教の勉強会に通うようになって、聞きかじりで上座仏教についても勉強するようになったのですが、ほどなく、上座仏教が輪廻説をとっていることがわかりました。

 その頃は、臨済宗の出家の老師の方の坐禅会にも参加するようになっていて、お彼岸の頃、丁度、オウム真理教の麻原彰光こと松本智津夫受刑者の死刑執行のなされた直後の頃の茶和会で、「断見は本来問題があるのですけれど、この際、申し上げておきますが、魂などはありません。死後の世界もありません。私は、死者のために読経をしたことはありません。」などというお話を聴いたことがありました。

 また、鈴木大拙先生の『無心ということ』の中で、歎異抄が取り上げられ、その第二条の中に「念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」があることを知り、浄土真宗が念仏して、死後、極楽往生を目指すというのは、スピリチュアルなものではなく、「地獄でよし」と現在の日常に安住を見出す発想のものであることを直観しました。

 そのような状況であったので、上座仏教が輪廻説を取っていることに強い違和感を抱きました。
 
 禅宗の寺院での説法などを聞かれた方には、上座仏教に対し、同様の違和感を抱く人が多いようです。
 
 最初は、歎異抄の肚と同じようなものかと思ったのですが、上座仏教の実践をしているほとんどの方は、その言動から、どうも肚の底から、輪廻という現象があるのを信じ込んでいるのだと分かりました。

 上座仏教における輪廻説の位置づけについては、次の文章がわかり易いかと思います。



ミャンマーには「国家サンガ大長老会(略)」というものがあります。その中で(略)二〇一一年に非法とされた教えがあります。(略)現在業論仏教(略)で、過去生、来世の輪廻を否定し、欲界、色界、無色界からなる三十一界説を否定して、現在の業のみを認めるものです。(略)
 現在業仏教はテーラワーダ仏教の伝統的な立場からは問題外です。過去生や来世を否定し、六道輪廻否定するなど、現代の日本の仏教学者に多くみられる意見と共通するものがありますが、特に深い瞑想体験や経典理解から出たとは思えない説です。」

(西澤卓美「厳格に伝えられるテーラワーダの伝統と瞑想の文化」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』50頁)



 考えてみれば、上座仏教では、一切皆苦が強調されるのですから、本当に、この世界に生きることについて、つらさを感じるのであれば、単純に自殺をすればよいことになり、瞑想などをする必要はないでしょう。

 そこで、自殺を防いでいくためには、死んだとしても、ずっと生まれ変わり続け、「苦」の状態が継続していくという神話が必要なのでしょう。

 しかし、上座仏教の実践を真しに続けているみなさんは、一種の方便としてそれを述べているのではなく、完全に信じ込んでいる人が圧倒的多数の印象です。

 そこに違和感を抱く人がいると、すぐに、輪廻説が述べられている経典をソラで言える人も少なくありません。

 傍目では、瞑想にはまり込みすぎて却ってクオリティ・オブ・ライフが下がっているのではないかと思われる人もいるのですが、そのような状況になってまで、瞑想実践が続けられる理由は、本気で、輪廻という現象が生じ、「苦」の継続から逃れるためには、上座仏教の瞑想実践を続けるしかないと信じ込んでいるからだと思われます。

 まあ、この辺りは、臨済禅の公案修行をしている方々にも似たような感じの人が少なからずおり、上座仏教の特徴というわけではないのでしょうけれど。



 「普通の」感覚では、単なるオカルトとしか思えないのですが、スマナサーラ長老以下、輪廻説を「宗教ではない、真理である」という違和感。

 当初、スマナサーラ長老が、信じることを否定し、合理性的に物事を語っているように思えたイメージがすっかりなくなりました。

 スマナサーラ長老の法話には、その人物を感じさせるものが多く、好感を抱いていたのですが、宗教家にすぎないということかと思います。

 やはり、「真理」「真理」と言う人は、怪しいということでしょう。

 考えてみると、上座仏教に係る人には、(上座)仏教の勉強をすることについて、「私は、真理を知りたいだけですから(=信仰しているわけではない)」というような言動をする人が多いですね。

 

 スマナサーラ長老は、キリスト教イスラム教等の他の宗教を強く批判することで知られていますが、キリスト教徒の方でも、同じ論理で「神の不存在の証明ができないのだから、神の存在を否定することはできないはずだ」という反論をしたくなるものでしょう。



 「是非云う人は、之是非の人」であって、自分自身のこのような物言いも気恥ずかしくあるのですが、私と同様に、スマナサーラ長老の著書を読んで、上座仏教は、神秘主義ではなく、合理的なイメージをもっていらっしゃる方もいようかと思いますので、ご参考までに。





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