随時更新『問答メモ』(追加問16~25)
(追加部分)
問16 佛道(仏教)を学ぶ価値はどこにあるのか。
答16 生きていく上でのアイディアを得る。
しかし、とらわれない。
わからなければ無視をする。
佛道を学ぶ前から生きており、生きる上では、佛教は不要。
慈悲を勧める教えだと考えて仏教に興味を持ったのであれば、既に、慈悲の行為をしたいと考えているのだから、まず、慈悲の行為をする。
わからないと考え始めると、考えることに時間を使い、慈悲の行為ができなくなる。
私たちの人生には何ら問題はなく、慈悲の行為をすることにも特別な知識はいらない。
禅の語録を含め、佛道に関する言説は、「余計な老婆親切」と心得る。
問17 佛道を学んだり、悟らなくては、本当の利他行為ができないのではないか。
答17 A 「本当の利他行為」などという形而上学的(本質論的)な概念を問題としないのが仏教
B 本当の利他行為とは、「対価を期待することなしに」やる利他行為である。
釈宗演『快人快馬』116~123頁
「凡そ、善行は、二つに分つことが出来る。積善と隠徳が即ち是れである。而して、宗教的善行は隠匿に属するものであって、報酬を求むる心の無い善行が隠徳である。(略)無功徳は、取りも直さず大功徳である。(略)例えば、太陽は萬物を化育する。併(しか)も太陽は何等の報酬を求むる心が無い。縦(よ)し太陽に心なくとも、物象は爾かく語って居る。其の無限大なる善事に対しては、功徳として計量し得られるものが無い。即ち、無功徳である。功徳を求めざる善行は、実に清々しい。(略) 陰徳即ち報酬の為めにせざる善き行いは、大乗教の教義に合ったもので、我が禅宗でも、大に之れを奨励して居る。(略)労働の対価として、即ち、労働の結果として、報酬を受くるにあらずして、単に報酬を得んが為めにする労働は、神聖でも何んでも無い。(略)富は必ずしも其身其家を幸福にするものでは無い。」
問17 坐禅(只管打坐)をする上でのポイントは?
答17 調身 腰骨を立てて、頭から背骨、腰骨までをまっすぐに伸ばして座ること
調息 ゆっくりと呼吸すること
私の場合、鼻から息を吐き出し、吐き切った後も、息を止め、息苦しくなったら、短く息を吸うというやり方をしている。
調心 やらない
問18 なぜ、「腰骨を立てて、頭から背骨、腰骨までをまっすぐに伸ばして座る」のか?
答18 姿勢を正すと、テストステロン(男性ホルモン)が分泌されて、前向きな気持ちになれるから。
問19 なぜ、「ゆっくりと呼吸する」のか?
答19 血中二酸化炭素濃度が低下→セロトニンが分泌→扁桃体の活動が低下→不安感が解消
問20 調心をなぜやらないのか?
答20 観察や集中(雑念を出さない)をしようとすると、「うまくできるかどうか」が問題となり、却って精神的負担が生じる。
特に、作為性が出て来ると、「うまくやること」を意図するようになり、却って、扁桃体の活動が増す危険がある。
調身及び調息のみによって十分な効果が生じる。
問21 特定の効果を目的として坐禅をすることは、「習禅」ではないか?
答21 A そういう下らないことを考えないのが禅。
B 坐禅は、よい悪いなどといった価値観を離れるために行われ、それ自体がよい悪いなどといった価値観を離れたことの表現です。
何かの目的を目指して坐禅をすることは、その目的が「よい」という価値観を前提としますから、よい悪いなどといった価値観を離れる坐禅のあり方と矛盾します。
そこで、何かを目的として坐禅をする「習禅」は否定されます。
けれども、「よい悪いなどといった価値観を離れる」ということも、そのようなあり方が「よい」という価値観を前提とします。
そうすると、「習禅」ではない、坐禅を観念することができるのか、という問題が生じます。
そこに、坐禅を語ることの問題があるので、「不立文字」という捉え方が大切になるのでしょう。
そこで、「よい悪いなどといった価値観を離れる」ということの捉え直しが必要になります。
そこで、「慈悲」です。
価値観は、虚妄ですが、それ自体は、大量に感受される情報の中から、生存をする上で、有益な情報を選別し、脳を効率的に機能させるために、有用なものです。
問題は、価値観に「過剰に」捕らわれることにより、却っていきづらくなってしまうことです。
「慈悲」の観点も、「ほかの人が幸せになるのが『よい』」という価値観を前提とします。
しかし、そこには自然と「自分の利益を縮減ないし否定する」という観点が含まれます。
坐禅を慈悲の行為として行う。
自己の活動を純粋な生存の目的のみに限定し、ほかの存在を自由に活動させてやる。
扁桃体の活動を低下させ、テストステロンを分泌させることで、活発に利他行為ができる状態に精神を持っていく準備として行う。
「習禅」の困難を「慈悲」を目的として克服しようとするのが「よい」のではないかなと思っています。
問22 自宅で座禅や瞑想などをする場合集中できないのでうまくできない。
答22 集中や雑念を生じさせない(一念不生、二念不継)などの調心をすることの問題点が出ている。
集中などはしない。姿勢をただすこととゆっくりした呼吸のみをする。
私の場合、小学生の自分の子供がテレビアニメを見ている横で坐禅をしていても、禅定(トランス状態)に入ることが出来る。
問23 坐禅は雑念を生じさせないことを目的とするのではないか。
問23 A そうするものだと思うなら、勝手にそうすればよいのではないか。独歩独立、自由自在であろうとするのが禅だ。
B 悉有仏性なのに、なぜ、雑念を嫌うのか?
C 飯田欓隠『通俗禅学読本』33~34頁
「若しも坐禅中色々のこと思い起すことありとも、それはそれに任せて、只そのものそれに純一になればそれでよい。皆坐禅中の出来ごとであるから、坐禅の分布である。この事南堂静禅師が委曲論及しておる。坐禅中心念粉飛せば如何に退治せんの垂誡至れり尽くせり、心念何れより起る。心念そのもの如何と見よ、粉飛その物も自性なし、能照の心なく所照の處なくんば、そのものながら脱落せるものにあらずや。却ってそのものそれをとらえて、心身脱落の好材料とするにたるに非ずや。所詮坐禅中いかに心念紛飛すとも関する處にあらず、只思うままに任せて可なりである。即是思量不思量底のものにあらずして何ぞや。実参実究するがよい。」
「煩悩を追うな払うな引かれるな。
煩悩を追ったり払ったりしている中に肝腎の自分を見失ってしまう。坐禅をしている間に、たとい八万四千の雑念が起滅してもとりあわねばよい。悟りを求めず、迷いを払わず、念の起こるを嫌わず、また念を愛して相続せず、ただ起こるに任せ滅するに任せておく。」
E 内山興正の引用
「われわれの坐禅は決してこうした煩悩妄想を断滅しようとするのではありません。煩悩妄想がわき起こるのも、われわれの生命力なのですから、これを断滅していいはずはないからです。しかしさりとて、ただ煩悩妄想のままにひきずりまわされていることは、かえって生命そのものを傷つけることであるのはいうまでもありません。
今われわれのする坐禅においては、この思いを手放しにすることの中に、いかなる煩悩妄想も「ありながら、ありつぶれ」になってしまうのです。」
(内山興正『坐禅の意味と実際』138頁)
問24 坐禅はどの程度の時間やればよいのか?
答24 A 加藤耕山…1回30分間を3回くらい
B 朝比奈宗玄…30分間~1時間くらい
C 瞑想の本などを読むと、20分間くらいでよいというものも多い感じがします。
問25 坐禅をするための禅道場や寺院は必要か?
答25 不要。積極的に持たない方がよいと思う。
特に在家の場合は、坐禅会を催す場合でも、公民館等の公共施設を利用したり、自宅を開放したりするなどに留めるのが無難と思う。
施設を所有すれば、その維持管理の費用が必要となり、その費用の負担の必要から、参加者の生活の質が低下するおそれがある上、どこかで「金儲け」的なことをして、自己の一部であるというべき、団体の維持・存続が目的として重大になり、それが、自分以外の幸福の実現を図るという仏道の主旨に合致するか疑問がある。
また、実践を理想的なものとすると、「理想的な状況ではないとうまくいかない」という観念を持ちがちになる。
(全体)
問1 禅とは何か?
答1 A 敢えて言うなら、そういう下らないことを考えないこと
B 鈴木大拙『禅』41~42頁
「禅は、要するに、自己の存在の本性を見ぬく術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。(略)それはわれわれの心に生まれつきそなわっている創造と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせることである。一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。
C 石井清純『禅問答入門』22頁
「禅宗系の諸派に共通しているのは、まず、現実にあるすべての事象に真理を見る、という徹底的な現実肯定の思想です。そしてさらに、次のような基礎概念を有しています。
① 経典や文字は直接真理を伝えていないので、それに依拠しない(不立文字・教外別伝)
② 自分の本性(本質)は、本来的に清らかなものである(自性清浄)
③ 悟りとはその清らかな本性を認識し自覚することにある(見性成仏・本来面目)
④ 正しい教えは、釈迦牟尼仏(釈尊)以来、師と弟子の心から心へ伝授される(以心伝心)」
問2 仏教とは何か?
答2 下らないことを考えない(で慈悲の実行をする)教え
「佛教は慈悲を以て主旨とする」
(釈宗演『一字不説』2頁)
問3 悟りとは何か?
答3 A そういう下らないことを考えないこと
B 上座仏教…貪瞋痴が滅すること
「経典において、『悟り』の境地(略)は、『貪欲の壊滅(略)、瞋恚(しんい)の壊滅(略)、愚痴の壊滅(略)』と定義されるのが常である。」
(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』42頁)
C 禅…自他不二を体認すること
問4 仏教の実践として何をするべきか?
答4 慈悲の行為と、敢えて言うなら只管打坐
問5 「敢えて言うなら」とは?
答5 只管打坐自体が他の存在に働きかけることなく、自由のままでいさせてやる意味で慈悲の行為。
扁桃体の活動を低下させるとともに、テストステロンを分泌させることで、慈悲の実行をしやすくするという意味でも慈悲の行為。
問6 読経は、すべきか?
答6 私ならやらない。
慈悲の行為の準備も慈悲の行為の一部と言えるが、準備の時間は短ければ短いほどよい。
問7 仏教の実践が慈悲の行為なら、食事や睡眠は?
答7 自分の肉体も慈悲の対象だが、勘違いしそうなので、慈悲の準備も慈悲の行為だとしておく。
「社会のために勉強し、社会のために生きる、道のために飯を食い、道のために茶を飲むというように、道のためにするのでなければならぬ。道のために尽さねばならん身体だから、お互い不養生するわけに行かぬのである。自分だけのためならどうでもよい。」
(澤木興道『禅談』313頁)
問8 公案の独参は必要か?
答8 本質的にいらない。
やりたければやればよいが、本来、出家のためのものなので、在家の仏道の実践としては遠回りだと思う。
問9 なぜ、公案の独参がいらないのか?
答9 A 公案は、法理を実社会生活の中で使いこなすためにある。
在家には、日常生活に現成公案がいくらでも生起し、法理を応用をする機会がいくらでもあるので、不要。
on the job training=修証一如
B 仏道は、慈悲の生き方をすることである。
(自己の肉体を含む)あらゆる存在を慈しむ生き方である。
少なくとも次のような生き方をするものである。
「毎日々々感謝の念を捧げて仕事をする事」
(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』131頁)
浄土門なら信仰心のみで、これを成し遂げる。
公案禅は、長期間坐禅するとともに、数百~千数百の公案を透過して、やっとこのようなことをする心理状態に至る。
修行が終了したときには、慈悲の行動をする時間はわずかか、多くの場合、修行が完了しないから、慈悲の行為をしないまま、一生を終える。
余りに非効率的である。
「公案の修行にやたらと時間をかけるのが、はたして、それほど必須のことかどうか。公案の数の多いのを誇って、たとえば『碧巌』百則・『無門関』四十八則を始めから終わりまで一則残らず全部、師の室内で学ばねば、宗旨が見て取れぬような教育法が、それほど望ましいことかどうか。(略)室内としては、むしろ公案体系一応の円成によって「禅者ひととおりの見識を体得」させて、ほんとうに大事な「日常底の修行」に早く意を注がしめるほうが、修行としてはより効果的ではないか。上(かみ)に向上の菩提を求むるは、下に一切の衆生を度せんがためにほかならない。いたずらに花道の長いのを誇るのは愚の骨頂である。」
(鈴木大拙発言。秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』90~91頁)
問10 公案は、法理を知るためのものではないか?
答10 それを狙って、公案が出されることもあるが、法理自体は、言葉で知ることができる。
(1)伊吹敦『禅の歴史』
「室町の中期になると、五山をはじめとして京都や鎌倉の名刹では、参禅がほとんど行われなくなった。そのため、開悟の体験を根本とする印証による嗣法はあり得ず、寺を承け継ぐことが嗣法であるとする、いわゆる伽藍法系の嗣法が一般化した。一方、地方の林下では、まだ遍参(へんざん)が行われており、印証による付法も存在したが、その内容は次第に変遷していった。公案の解釈が密教や古今伝授(こきんでんじゅ)などの切紙相承(きりがみそうじょう)の影響を受けて口伝法門化し、口訣の伝授を付法、嗣法とする風潮が生じたのである(こうした禅を「密参禅」、伝授内容を記したものを「密参録」と称している)。密参禅は時とともにいよいよ盛んとなり、臨済宗も林下の禅は全て密参禅となって、ついには五山などにも入り込んでいった。」
(243頁)
(2)柳田聖山『禅思想』
「ダルマにはじまる禅宗が、それまでの仏教学に新たに加えた道理は、おそらく何もなかったといってよい。」(47頁)
問11 「私」とは何か?
答11 A そういう下らないことを考えないで、慈悲の実行に直入するのが仏道である。
B ただの現象であり、実体はない。今風に言うなら、脳の神経系の電気信号
問12 禅とは悟りを得ることを目的とするものではないか?
答12 目的としてもよいが、多くの場合遠くなる。
重要なことは慈悲の実行をすること。
「悟りが大事ではない、ということではない。しかし、それは禅において重視しなければならないところではない」
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』11頁)
問13 なぜ、慈悲の実行をするのか?
答13 A そういうくだらないことを考えず、「ただ」慈悲を実行するのが仏道。
B ただ、慈悲の実行をしたいから。
それ以上の理由はない。
C 脳科学論的にいうと、楽観的な生き方をする上では、不安がないことのほか、自分が積極的に取り組めることをすることが必要である。
不安を解消するためにすることが、只管打坐。
積極的に取り組めることが慈悲の実行。
問14 仏教は輪廻からの解脱を目的とするものではないか。
答14 原始仏典には、六道輪廻からの解脱を前提とする記述がある。
しかし、仏教の基本的な発想からすれば、死後の状況についてはわかりようがないはすであるから、戯論とすべきものだと思う。
佛教は、バラモン教の概念を換骨奪胎するものであり、釈尊も歴史的な制約から自由ではないから、その点で誤ったことも云うだろう。
ただのオカルティズムであり、相手にする必要はない。
現在のテーラワーダの大きな問題点。
問15 仏教書はどの程度読むべきか。
答15 慈悲の実行をしていれば、本質的には不要。
A 仏教書を読んだり、坐禅などの実践をする前から生きていたことが重要。
悩み、苦しみ、迷うことがあっても、なんだかんだ言ってこの体は外部環境に対応することができているからこそ、現在生きている。
頭の片隅で、「苦しい」などという微細な電気信号が生じているだけの話。
B 真理は確かなことであり、一番確かであるのは、目の前で生じている現象。
目の前で生じている現象を抽象化したものが理論。
理論は推測を重ねてできるものであり、目の前で生じている現象と比較すれば妄想。
仏教書に書いてあるものも、目の前で生じている現象と比較すれば妄想。
このような妄想をするのではなく、目の前で生じている現象の中で生きていくのが仏道。
問16 佛道(仏教)を学ぶ価値はどこにあるのか。
答16 生きていく上でのアイディアを得る。
しかし、とらわれない。
わからなければ無視をする。
佛道を学ぶ前から生きており、生きる上では、佛教は不要。
慈悲を勧める教えだと考えて仏教に興味を持ったのであれば、既に、慈悲の行為をしたいと考えているのだから、まず、慈悲の行為をする。
わからないと考え始めると、考えることに時間を使い、慈悲の行為ができなくなる。
私たちの人生には何ら問題はなく、慈悲の行為をすることにも特別な知識はいらない。
禅の語録を含め、佛道に関する言説は、「余計な老婆親切」と心得る。
問17 佛道を学んだり、悟らなくては、本当の利他行為ができないのではないか。
答17 A 「本当の利他行為」などという形而上学的(本質論的)な概念を問題としないのが仏教
B 本当の利他行為とは、「対価を期待することなしに」やる利他行為である。
釈宗演『快人快馬』116~123頁
「凡そ、善行は、二つに分つことが出来る。積善と隠徳が即ち是れである。而して、宗教的善行は隠匿に属するものであって、報酬を求むる心の無い善行が隠徳である。(略)無功徳は、取りも直さず大功徳である。(略)例えば、太陽は萬物を化育する。併(しか)も太陽は何等の報酬を求むる心が無い。縦(よ)し太陽に心なくとも、物象は爾かく語って居る。其の無限大なる善事に対しては、功徳として計量し得られるものが無い。即ち、無功徳である。功徳を求めざる善行は、実に清々しい。(略) 陰徳即ち報酬の為めにせざる善き行いは、大乗教の教義に合ったもので、我が禅宗でも、大に之れを奨励して居る。(略)労働の対価として、即ち、労働の結果として、報酬を受くるにあらずして、単に報酬を得んが為めにする労働は、神聖でも何んでも無い。(略)富は必ずしも其身其家を幸福にするものでは無い。」
問17 坐禅(只管打坐)をする上でのポイントは?
答17 調身 腰骨を立てて、頭から背骨、腰骨までをまっすぐに伸ばして座ること
調息 ゆっくりと呼吸すること
私の場合、鼻から息を吐き出し、吐き切った後も、息を止め、息苦しくなったら、短く息を吸うというやり方をしている。
調心 やらない
問18 なぜ、「腰骨を立てて、頭から背骨、腰骨までをまっすぐに伸ばして座る」のか?
答18 姿勢を正すと、テストステロン(男性ホルモン)が分泌されて、前向きな気持ちになれるから。
問19 なぜ、「ゆっくりと呼吸する」のか?
答19 血中二酸化炭素濃度が低下→セロトニンが分泌→扁桃体の活動が低下→不安感が解消
問20 調心をなぜやらないのか?
答20 観察や集中(雑念を出さない)をしようとすると、「うまくできるかどうか」が問題となり、却って精神的負担が生じる。
特に、作為性が出て来ると、「うまくやること」を意図するようになり、却って、扁桃体の活動が増す危険がある。
調身及び調息のみによって十分な効果が生じる。
問21 特定の効果を目的として坐禅をすることは、「習禅」ではないか?
答21 A そういう下らないことを考えないのが禅。
B 坐禅は、よい悪いなどといった価値観を離れるために行われ、それ自体がよい悪いなどといった価値観を離れたことの表現です。
何かの目的を目指して坐禅をすることは、その目的が「よい」という価値観を前提としますから、よい悪いなどといった価値観を離れる坐禅のあり方と矛盾します。
そこで、何かを目的として坐禅をする「習禅」は否定されます。
けれども、「よい悪いなどといった価値観を離れる」ということも、そのようなあり方が「よい」という価値観を前提とします。
そうすると、「習禅」ではない、坐禅を観念することができるのか、という問題が生じます。
そこに、坐禅を語ることの問題があるので、「不立文字」という捉え方が大切になるのでしょう。
そこで、「よい悪いなどといった価値観を離れる」ということの捉え直しが必要になります。
そこで、「慈悲」です。
価値観は、虚妄ですが、それ自体は、大量に感受される情報の中から、生存をする上で、有益な情報を選別し、脳を効率的に機能させるために、有用なものです。
問題は、価値観に「過剰に」捕らわれることにより、却っていきづらくなってしまうことです。
「慈悲」の観点も、「ほかの人が幸せになるのが『よい』」という価値観を前提とします。
しかし、そこには自然と「自分の利益を縮減ないし否定する」という観点が含まれます。
坐禅を慈悲の行為として行う。
自己の活動を純粋な生存の目的のみに限定し、ほかの存在を自由に活動させてやる。
扁桃体の活動を低下させ、テストステロンを分泌させることで、活発に利他行為ができる状態に精神を持っていく準備として行う。
「習禅」の困難を「慈悲」を目的として克服しようとするのが「よい」のではないかなと思っています。
問22 自宅で座禅や瞑想などをする場合集中できないのでうまくできない。
答22 集中や雑念を生じさせない(一念不生、二念不継)などの調心をすることの問題点が出ている。
集中などはしない。姿勢をただすこととゆっくりした呼吸のみをする。
私の場合、小学生の自分の子供がテレビアニメを見ている横で坐禅をしていても、禅定(トランス状態)に入ることが出来る。
問23 坐禅は雑念を生じさせないことを目的とするのではないか。
問23 A そうするものだと思うなら、勝手にそうすればよいのではないか。独歩独立、自由自在であろうとするのが禅だ。
B 悉有仏性なのに、なぜ、雑念を嫌うのか?
C 飯田欓隠『通俗禅学読本』33~34頁
「若しも坐禅中色々のこと思い起すことありとも、それはそれに任せて、只そのものそれに純一になればそれでよい。皆坐禅中の出来ごとであるから、坐禅の分布である。この事南堂静禅師が委曲論及しておる。坐禅中心念粉飛せば如何に退治せんの垂誡至れり尽くせり、心念何れより起る。心念そのもの如何と見よ、粉飛その物も自性なし、能照の心なく所照の處なくんば、そのものながら脱落せるものにあらずや。却ってそのものそれをとらえて、心身脱落の好材料とするにたるに非ずや。所詮坐禅中いかに心念紛飛すとも関する處にあらず、只思うままに任せて可なりである。即是思量不思量底のものにあらずして何ぞや。実参実究するがよい。」
「煩悩を追うな払うな引かれるな。
煩悩を追ったり払ったりしている中に肝腎の自分を見失ってしまう。坐禅をしている間に、たとい八万四千の雑念が起滅してもとりあわねばよい。悟りを求めず、迷いを払わず、念の起こるを嫌わず、また念を愛して相続せず、ただ起こるに任せ滅するに任せておく。」
E 内山興正の引用
「われわれの坐禅は決してこうした煩悩妄想を断滅しようとするのではありません。煩悩妄想がわき起こるのも、われわれの生命力なのですから、これを断滅していいはずはないからです。しかしさりとて、ただ煩悩妄想のままにひきずりまわされていることは、かえって生命そのものを傷つけることであるのはいうまでもありません。
今われわれのする坐禅においては、この思いを手放しにすることの中に、いかなる煩悩妄想も「ありながら、ありつぶれ」になってしまうのです。」
(内山興正『坐禅の意味と実際』138頁)
問24 坐禅はどの程度の時間やればよいのか?
答24 A 加藤耕山…1回30分間を3回くらい
B 朝比奈宗玄…30分間~1時間くらい
C 瞑想の本などを読むと、20分間くらいでよいというものも多い感じがします。
問25 坐禅をするための禅道場や寺院は必要か?
答25 不要。積極的に持たない方がよいと思う。
特に在家の場合は、坐禅会を催す場合でも、公民館等の公共施設を利用したり、自宅を開放したりするなどに留めるのが無難と思う。
施設を所有すれば、その維持管理の費用が必要となり、その費用の負担の必要から、参加者の生活の質が低下するおそれがある上、どこかで「金儲け」的なことをして、自己の一部であるというべき、団体の維持・存続が目的として重大になり、それが、自分以外の幸福の実現を図るという仏道の主旨に合致するか疑問がある。
また、実践を理想的なものとすると、「理想的な状況ではないとうまくいかない」という観念を持ちがちになる。
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