坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

一指頭受用不盡

「真なるが故に新なり。太陽は朝々東より出で、夜々西に没し、往古来今同じ事を繰返して居って、いつも清新であって陳腐ではありません。天龍和尚より伝えられたる一指頭の禅、俱胝に至って一生受用して盡きず、いつも清新であって陳腐を見なかったのは、此の一指禅より真理が迸り出たから」

(加藤咄堂『碧巌録大講座 第十三巻』163頁)
 
 
 我ながら「いつも同じようなこと書いてるよな」と思います。

 仏道は、結局、「慈悲」に尽きる。

 だから、書く話は、全て同じように「慈悲」にまとまっていく。


「念佛行者は南無阿弥陀佛を受用して一生不盡、法華経行者は南無妙法蓮華経を受用して一生不盡、此の一生不盡の所に真もあれば新もあるのです。
 明治佛教界の高僧として知られた南條文雄(なんじょうぶんゆう)博士の父に当られる南條神興(じんこう)というお方は、いつも南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛と同じ説教をせられるので、信者の一人が、
『和上(わじょう)、毎度同じお話ですが、少しは異った話をして下さい』
 と頼みますと、和上は、
『浄土の安心に異ったことがあるか、今日も亦同じだ、南無阿弥陀佛〱』
とやられたという話がある。」

(加藤咄堂『碧巌録大講座 第十三巻』164頁)

 
 同じ次元で語ることは、おそれ多いなとも思いました。

 しかし、日々夜々繰り返すことは、仏道では本当に大切なことです。


 毎日、坐禅を欠かさない。

 毎日、慈悲の実践を欠かさない。


 私は、怠惰が染みついてしまって、慈悲の実践が大切だとわかっていても、すぐに体が動かない。


 欠かさずに坐禅をして、いつでも心に余裕があるようにする。

 余裕を作って、不幸な人に気づけるように、自分のなすべきことに気づけるように、なすべきことをすぐできるようにしておく。


 「慈悲」と言葉で言うのは簡単。

 「慈悲」の具体的な行動をしなければ全く価値がない。


 日々、「慈悲」、「慈悲」と繰り返し言って、慈悲の観点を忘れないように。

 不遜と言われるかも知れないけれど、ほかの人にもわかるように言って、ほかの人から厳しい目を注いでもらって、この体が慈悲の行為をせざるを得ないように。


 日々夜々、坐禅と慈悲とを繰り返す。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

参考になる点がありましたら、クリックをしていただければ幸いです。