坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

健全な「悟り」

 「悟り」とは、上座仏教であれば、貪瞋痴を断滅することであり、大乗仏教であれば、自他不二を体認することです。


 いずれも、趣旨は分かります。

 けれども、いずれも、過度の瞑想等による血中酸素濃度の低下等によって引き起こされた変性意識下での異常体験の類にすぎません。

 健全なものとは言えません。


 人間が自分の欲望や感情に振り回されて苦悩するということはよくあることです。

 とはいえ、それを全く無くさなくても、十分に社会に適応して生きていくことができます。

 これが完全になくならないと気が済まないというのは、一種の不安症で、それ自体、病的な心理でしょう。


 また、世界と自己との区分が厳密にいえば困難であり、自己の主観による恣意的な区分にすぎないことは、西洋現代思想においても常識であって、頭で少し考えればわかることです。

 わかっていても、自己の認識の枠組みにとらわれがちではあります。

 しかし、自己と世界の区分というものは、この肉体が十分な活動をする上で有用な道具です。

 完全に否定すべきものではありません。


 臨済禅の公案修行でも、悟りを目指して向上の公案を了した後は、向下の公案に取り組むところです。


 変性意識下で異常心理を作り出し、頭でわかっていることを脳みそに刻み付けることの有用性も否定できません。

 しかし、果たしてそこまでする必要があるのか。


 実際、その種の異常体験をした人に出会うことも少なくありません。

 しかし、そのような人が特段人格的に優れているとか、特に人間的な能力が高いということが感じられることはありません。

 自他不二の体認をする目的は、自他不二だと他者に対しても慈悲心を発揮しやすくなることにありますが、正直、そのような体験をしている人が、慈善事業の類に力を入れているということもないようです。

 正直、社会において有用な役割を果たすかどうかということと、テーラワーダや禅等の仏道の実践をしているということはリンクしているわけではありません(特に、テーラワーダは社会問題など問題にしません。)。

 どちらかというと、仏道修行の類にはまり込んでしまうと、よい仕事をし、よい家庭を築くという平凡な社会的活動の実践との間で軋轢が生じてしまう人が多いように感じます。

 (大乗)仏教の目的であるところの慈悲の実践とは遠いところに行ってしまう。


 人生は、愛し働くためにあるのであって、苦から逃れるためにあるのではありません。

 坐禅等の瞑想で、人生をつぶすことはもったいないことです。


 生死事大 無常迅速


 時間を無駄にしないことは、禅家のならいです。

 貪瞋痴の断滅や自他不二の体認などといったような異常心理としての「悟り」などは目指すべきではありません。

 「求心止むところ、即ち無事」です。


 坐禅のよさは、異常心理のような「悟り」ではなく、もっと日常的な「気づき」が生じやすくなることです。

 坐禅の際のゆっくりとした呼吸により、血中二酸化炭素濃度を高め、扁桃体の活動を低下させることによって、日常生活の中での不安が解消されていくと、心に余裕が生まれます。

あわただしく追われるように過ごす中で気に留めることができなくなっていたことに、気に留めることができるようになります。


 不幸な人に気づく。

 その人のためにできることに気づく。


 このような地に足の着いた気づきは、慈悲の実践をする上での前提です。


「理解と愛は、別々のものではなく、一つのものです。

 あなたの息子さんが、朝、目を覚まして、遅くなっていることに気がついたとしましょう。妹を起こして、学校に行くまえに朝御飯が食べられるようにしようとします。ところが、妹は機嫌が悪く、「起こしてくれて有難う」という代わりに、「うるさい。やめて」と言って、兄を蹴ります。おそらく、彼は怒って、「親切に起こしてやったのに、なぜ蹴るのだ」と思うでしょう。台所へ行って告げ口をするか、妹を蹴り返そうとするかもしれません。

 しかし、そのとき、妹が夜中にひどく咳をしていたことを思いだし、彼女が病気らしいことに気づきます。風邪をひいているに違いない。だから、わがままなのだろう。
 
 彼はもう怒っていません。その瞬間、目覚めた人が、彼の内にいます。理解し、目覚めています。

 理解するとき、あなたは愛さざるを得ません。怒ることができません。

 理解を深めるためには、生きとし生けるものを慈愛の目で見ることを、実践しなければなりません。

 理解するとき、愛します。

 愛するとき、自然に、あなたは、人々の苦しみをやわらげる行いをします。

 目覚め、知り、理解する人を、目覚めた人と呼びます。目覚めた人は、私たちの誰もの内にいます。私たちは、目覚め、理解し、そして同時に、愛にみちていることができます。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』24~25頁)


 日々の慈悲の実践を基礎づける、日常的な「気づき」、異常心理ではない、身の丈にあった健全な「悟り」を日々与えてくれるものが坐禅なのだと思います。



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