「病んでいる」という病
「「一念不生全体現、」(略)以下四句、禅修行の心得であります。(略)一念と云うは、可愛い―――憎い―――ほしい―――おしい―――と云う、それであります。かかる念慮は何人にも胸中に生じます。(略)種々様々の念慮の生ずるのが、心の本質であります。一応字面の上のみ見ますると無念無想になれと云う様でありますが、否、然(しから)ずであります。可愛なら可愛の一念の外に余念を生ぜず、憎いなら憎いの他に邪念を生ぜず、ほしい―――おしい―――そのまま、是に別の念慮を混入せず、そのものそれ三昧になることであります。(略)次の句に「六根纔動被雲遮、」で六根の眼耳鼻舌身意のために、心が引き廻されて、妄想又妄想、執着又執着、既に迷って居る其上に更に迷を添うる、是等の雲霧のために真如の明月が其面目を隠すことになる。「断除煩悩重増病、」元より本心本性は無病健全である。然るに可愛と云うそれを煩悩と思い、憎いと云うそれを煩悩と思い、ほしい、おしい、と云うそれを煩悩として、それらの一切を断じよう、除こう、払おうとする、それぞれが抑々病気の上の病気である。煩悩即菩提と云うことを知らずし是等の煩悩病を全快させんが為に頻りに真如を求むるが、是又大なる迷いである。」
(菅原時保『碧巌録講演 其二』57~59頁)
*菅原時保(1866-1956)は、臨済(りんざい)宗。神奈川県了義寺の通翁の法をつぎ、明治37年京都建仁寺で竹田黙雷から印可をうける。翌年建長寺派管長、建長寺住職。1914―1927興禅護国会師家。
仏伝によれば、仏教は、元々「苦」を解消しようとすることを狙いとしたものであるとされます。
いわゆる四苦八苦。
生苦=生きていく不安。
老苦=老いる不安。
病苦=病むことへの不安。
死苦=死ぬことへの不安。
愛別離苦=愛する者と別離する不安。
怨憎会苦=怨み憎んでいる者に会う不安。
求不得苦=求める物が得られない不安
五蘊盛苦=五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない不安。
そして、このような不安の原因が三毒とよばれる三つの根本的な煩悩にあるとし、これらの解消を目指します。
貪欲=自分の好むものをむさぼり求めること
瞋恚=自分の嫌いなものを憎み嫌悪すること
愚痴=ものごとに的確な判断が下せずに,迷い惑うこと
私たちは、四苦八苦のような、いろいろな不安を持ちます。
そして、その不安の根源には、三毒のような何らかの「欲望」があります。
自分のもっている欲望が将来的には満たされないという事態を予期することが不安です。
そこで、「欲望」の制御が問題となります。
坐禅は、その制御のための有用な手段です。
坐禅の際のゆっくりとした呼吸は、セロトニンの分泌を促し、扁桃体の活動を低下させます。
扁桃体は、将来の利益・不利益の予期をする活動をするものであり、特に、不利益の予期をするものですが、その活動が低下することによって、不安感が解消されていくのです。
「呼吸を止めると苦しくなります。それは血中の二酸化炭素が脳の呼吸中枢を刺激するあからです。そこで苦しくなり、息を吐き出し、早く呼吸をします。それは早く二酸化炭素を体の外に出そうとする反応です。またゆっくり呼吸すると血中の二酸化炭素の量がある程度増えます。だから少し苦しくなり、早く息をしたくなるのです。このような二酸化炭素は脳内でセロトニンを増やす効果をもつのです。つまり脳内の二酸化炭素が増えると脳内に多くのセロトニンが放出されるのです。」
(高田明和『一日10分の坐禅入門――医者がすすめる禅のこころ』143頁)
「不安症状や不安障害には神経伝達物質のセロトニンが大きく関与していると考えられています。というのも、不安や恐怖は脳の扁桃体の過活動によって引き起こされますが、セロトニン神経は扁桃体の活動を抑制的に調節しています。」
(ひだまりこころクリニックhttps://hidamarikokoro.jp/blog/%E4%B8%8D%E5%AE%89%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%82%8B%E3%81%8B/)
けれども、このような不安を完全に解消しようとすることには無理があります。
時間や空間が認識作用によって作り出されたものにすぎないとしても、同時に、私たちが生きるということは、時間と空間の制約の中で生きるということであり、その世界の中で、十分に作用を発揮するためには、未来の予期は必要不可欠だからです。
私達は、よりよい作用を世界に及ぼすため、何をするのがよいことんであるのか、きちんと悩まなくてはなりません。
だから、煩悩と呼ばれるものを断滅するという構想には無理があるのです。
そもそも煩悩と呼ばれるものはあって当たり前のものです。
問題はそれが過剰に働いてしまうことであって、なくそうとすると却って無理が生じます。
完全に無くしたいのであれば止めはしませんが、きっと無理がある。
テーラワーダや禅の実践を一生懸命やっている人を見ると、瞑想や坐禅に時間を使いすぎて、ほかのことを犠牲にしている人が少なくないように思います。
どこか生きづらさを感じて、仏道の実践を始めたはずなのに、却って人生の価値を下げてしまっては本末転倒です。
普通の人は、煩悩とうまく付き合って生きています。
神経質になくそうとすることが間違っているのです。
「煩悩の存在が病であって、治療しなくてはならない」と思っているそのことが病なのです。
「可愛と云うそれを煩悩と思い、憎いと云うそれを煩悩と思い、ほしい、おしい、と云うそれを煩悩として、それらの一切を断じよう、除こう、払おうとする、それぞれが抑々病気の上の病気である。」
まさしくそのとおり。
このような見方を精神障害の治療に応用したものが森田療法です。
「一般的に森田療法は「あるがまま」という言葉で代表され、「症状をあるがままに受け入れる」療法だと思われていますが、実際の療法はそれとは違っていて、あくまでも作業が療法の中心です。そして神経症は病気ではなく、本人が病気と思い込んで、自分で治そうとして治らず、ますます病感が増大した状態に過ぎないととらえているのです。」
(三省会「森田療法の特徴」https://sanseikai.org/features.html)
病気ではないのに、「本人が病気と思い込んで」しまうことが不幸の始まりなのです。
このような精神的な問題の完全な解決を必要としないという見方は、精神障害の治療方法としてトレンドとなった認知行動療法の実態からも裏付けられます。
認知行動療法は、元々精神障害の原因(と家庭されていた)認知の枠組みを解消することを目指したものでしたが、実践を繰り返すなかで、その治療法の効果の貴女が、患者の認知の枠組みが残りながら、認知の枠組みの影響を受けなくなること(脱中心化)であることがわかってきました。
実社会生活の中で十分に働くことができるようになることです。
それができるのであれば、あとは、どうということはない。
そもそも「心」などというものは、単なる現象であり、実体はないのです。
私たちにとって重要なことは、外部情報の入力に対し、適切な出力=行動をすることなのですから、その適切な行動ができるのであれば、そこに至るプロセスは気にするようなものではないのです。
逆にいえば、プロセスを問題にする、認知の枠組みや煩悩といったものを完全になくそうとするときに、思い病が現れるのです。
正しく問題は、自分自身が作り出してしまうものなのです。
「有馬 (略)「地獄」は自分で造っているんです。悟れない者が仏に頼り、経典に頼り……
そうするとどんどん地獄に落ちていくよ、ということです。
地獄というのは煩悩の凝り固まった世界。「煩悩即菩提」――煩悩を裏返しにしたら菩提なんです。菩提っていうのは悟りの境地。それが実は煩悩と同じもんやと言うてる。だから、それを求めたらアカン、というただそれだけの話です。
――禅とは修行して「悟り」を求めるものではないのでしょうか。それなのに、菩薩を求めても、仏典を読んでも「地獄」から逃れることは出来ない、というのですか。
有馬 いや、そうではなくて、その行為自体が「造地獄」やと言うとるんです。書いてある通りです。仏を求めること、法を求めること、これが「造地獄」の業と。
(有馬賴底『『臨済録』を読む』189~190頁)
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