共在性
「私はよく中年女性の会話に耳を傾けます。こんなに会話を楽しむ人たちもいないからです。「久しぶり」などと、互いの近況などをまず話します。
この辺まではかみ合っているのですが、徐々に合わなくなります。互いが互いの話したいことをしゃべるからです。聞えてはいるのでしょうが、相手の息継ぎを機に自分のことを話します。この繰り返しで、分かれ際に「今日は楽しかった、また会おうね」になるのですから、不思議です。まあ、それでいいんですね。
(略)
落語には、主体性のない幇間(たいこもち)の一八(ぱち)が登場します。すごいですよ、客の言うことをすべて肯定するんです。
「いい天気だなあ」「いい天気ですねえ」「少し曇ってきた」「曇りますよ、そりゃ」「Aだけど、オレあいつ嫌いなんだ」「私も嫌い」「でも、いいとこもある」「いいとこだらけですよ」(略)
これで愛されキャラなんです。まず人は、相手の話を聞いていないということがわかります。(略)相手の話を聞くふりをしながら自分のことを話しましょう。」
(立川談四楼「人生相談 自分の意見がいえない」)
最近、「共在性」という言葉を知りました。
人と人とが、嫌い合っていても、無視し合っていても、一緒にやっていくということを称していうことだそうです。
似たような言葉で「共同性」や「共生」というものもありますが、「共在性」の概念の方が、個々人の独立性が強調される意味合いを感じ、適切なように思います。
それぞれ異なりながら、支え合うというところが、不異不一な感じがして良いと感じました。
「この姿勢(結跏趺坐)は、二つではない、一つでもないという「二元」性の「一者」性を表わしています。これはもっとも大事な教えです。二つではない、一つでもない、ということです。もし私たちの心と身体が二つである、と考えると、それは間違いです。私たちの心と身体は、二つでありながら一つ、なのです。(略)実際の人生の経験に照らしてみましょう。私たちの人生は、複数であるばかりでなく、単一です。私たちは、互いに支えあう、と同時に自立しています。」
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』38頁)
私たちが共にうまくやっていくためには、表面的にうまくいっていけば十分であり、内面世界や思想まで一致している必要はありません。
内面世界や思想まで一致させようとするとき悲劇が生まれるように思います。
太平洋戦争後の一時期流行った新左翼運動がその典型であり、部外者にとってはどうでもいいような考え方の違いだけで、内ゲバのような殺し合いが生まれました。
人と人とは違います。
その違いを尊重して受けいれる。
ところが、真面目すぎる人には、それができない。
弱い人には、それができない。
思想的な対立、政治的な対立、宗教的な対立の根源は、真面目さと弱さではないかと思います。
真面目すぎるから、考え方の些細な違いが許せない。
弱いから、違う考え方が存在すると自分の考え方の基盤がゆらぐような恐怖感を抱く。
思想、政治、宗教は、いずれも、表面的に感じ取れる現象ではない。
どんなすばらしい思想、政治、宗教上の考えであれ、表面的な感覚から推論を重ねた上で生じる「妄想」にすぎません。
世界は夢に過ぎない可能性があるだとか、全ては世界は人間の認識能力が作り出したものにすぎないだとか、本当は世界には「私」がいるだけなのだとかいった世界観も妄想にすぎません。
変に賢くなると、あるいは、賢くなったような気になると、このように妄想を積み重ねることが「哲学」であり、優れたことであるように思えてしまいます。
「大なり、小なり、不可避的に、知的面で、何とか解決をつけたいと考えて、公案の透過に孜々(しし)としている禅僧の心はおのずから抽象的な領域にのみ食いこんでゆくので、生活の社会的・実際的意味についてはあまり注意をはらわぬ傾向がある。空(sunyata)の教義は、すでに述べたように、仏教との考えを個別的相対の世界からそらすようである」
(鈴木大拙『鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』103~104頁)
しかし、本当の世界は、目の前に見えている世界です。
本当の世界は、意識の内奥ではなく、意識の外にあります。
頭の中では、いろいろ妄想するかもしれないけれど、棒で殴られれば痛い、耳元で「喝」と怒鳴りつけられればびくりとする。
これが世界です。
表面的な感覚が私たちにとって一番確かなものです。
仏道の思想的な側面は、思想批判です。
そして、よく引用させていただく次の言葉です。
「ゴーダマ・ブッダによると、当時の思想界で行われていた種々の哲学説、宗教説は、いずれも相対的、一方的であり、結局解決し得ない形而上学的問題について論争を行っているために、確執に陥り、心理を見失っているのです。(略・このような問題について)イエスともノーとも答えなかったことが、実は一つのはっきりした立場を表明しているのです。なぜ答えなかったかといいますと、これらの形而上学的な問題の論議は益のないことであり、真実の認識、正しいさとりをもたらさぬからであるというのです。
かれは種々の哲学説がいずれも特殊な執着に基づく偏見であると確かに知って、そのいずれにもとらわれることなく、みずから顧みて、真の人間の生きる道をめざしました。」
(中村元『原始仏典』20~21頁)
私たちが、助け合い愛し合うためには思想はいりません。
思想は却って対立を産みます。
私たちは、助け合い愛し合うためには本当に理解し合う必要はありません。
本当に理解し合おうとしたとき、どこかで、相手と自己とを同じようなものにすることを欲してしまいます。
同じ考え方を持つ人を求めようとすると、私たちは、不幸に陥ります。
人間は、同じ所もあれば、違う所もあるということが極めて当たり前の真実だからです。
全く同じ考え方を持つ人などはいません。
同じ考え方を持つ人を求めようとすると、結局は見つからないので、却って、孤独に陥るか、ほかの人の考え方に迎合するか、あるいは、ほかの人を支配するしかなくなる。
そこには、人と人とが対等に支え合う関係性はありません。
そもそも、「心」などというもの自体、実体のない虚妄なのです。
たわいもない表面的な関係性こそを大切にしていくようにしています。
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