坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

正受の仕方

 臨済禅における公案にはいくつかの種類があり、それぞれの狙いがありますが、公案を用いての独参の最も重要な狙いは、正受する力を養うことにあると考えています。
 
 法理などを何らかの形で、知る、感じる、体認するという狙いもありますが、法理等は言葉によっても認識することが可能だからです。

  
「ダルマにはじまる禅宗が、それまでの仏教学に新たに加えた道理は、おそらく何もなかったといってよい。」
(柳田聖山『禅思想』47頁)

 
 それまで仏道の世界では、言葉で法理を伝えてきたのですから、法理はきちんと言葉で伝わるはずです。
 
 
 そもそも、室町時代においては、伝法自体が口授によって行われていたのですから、法理を伝えるのに、わざわざ公案を使った独参をする必要はないのです。


「室町の中期になると、五山をはじめとして京都や鎌倉の名刹では、参禅がほとんど行われなくなった。そのため、開悟の体験を根本とする印証による嗣法はあり得ず、寺を承け継ぐことが嗣法であるとする、いわゆる伽藍法系の嗣法が一般化した。一方、地方の林下では、まだ遍参(へんざん)が行われており、印証による付法も存在したが、その内容は次第に変遷していった。公案の解釈が密教や古今伝授(こきんでんじゅ)などの切紙相承(きりがみそうじょう)の影響を受けて口伝法門化し、口訣の伝授を付法、嗣法とする風潮が生じたのである(こうした禅を「密参禅」、伝授内容を記したものを「密参録」と称している)。密参禅は時とともにいよいよ盛んとなり、臨済宗も林下の禅は全て密参禅となって、ついには五山などにも入り込んでいった」
(伊吹敦『禅の歴史』243頁)


 公案を用いての独参の最も重要な狙いは、法理の応用の力を養うこと、特に、「正受」する力を養うことです。

 
 禅の修行の目的は、慈悲の実践そすることです。


「仏教は慈悲を以て主旨とする。」

(釈宗演『一字不説』2頁)

 
 慈悲の基本は、相手の望んでいるものを与えることです。

 相手の発する言葉から望んでいるものがわかることも多いですが、言葉には限界がありますから、きちんと言葉で表現ができないこともありますし、遠慮や思いやりなどから、自分の希望をきちんと言わない場合もあります。

 そもそも乳幼児のように、自分の希望を言葉で表現できない場合もあります(この点で、子供を持つことは、禅修行の上で大変望ましいということになると思っています)。

 また、冷静なときであればともかくとして、焦っているとき、追い詰められているときは、本当に望むものについて適切に判断ができず、そのときには、こちらの側で本当に何がその人にとって望ましいのかを判断する必要もあります。

 
 そこで、言外で、相手にとって本当に望ましいものは何なのか、相手の肚を知る力が必要です。

 公案の独参は、その公案を作った者の肚、あるいは、それぞれの師家が公案をどうとらえているのかの肚を適切に察知し、これを表現する点で、正受をする力を高める絶好の訓練だといえるでしょう。

 
 自己と他者とは異なり、どのような方法で正受をすればよいのか問題となります。

 正受に関する現成公案をいかに解くべきかということですが、それには、自分自身を用います。

 人生の経験を経る中で、自己と他者の相違を知らされるものですが、同時に、自己と他者との共通性に気づくことも多く、差し当たり、自己を手がかりに正受を試みるのです。

 
 このように抽象的に書くと、すごい作業のように見えますが、阿川佐和子先生の本に、この点に関するわかりやすい記述がありました。


「どうやって相手の気持を推し測ればいいのか(略)
 もちろん「私」ではないのですが、それでも「私」を一つの基準に設定することは無駄ではありません。「私なら、そんなとき、どう思うだろう」「私だったら、泣いちゃうぞ」。
 自分と同じであることを「正しい」とか「当然だ」と過度に思い込まないようにさえすれば、目の前の人が、「私」とどう違うのか、どのくらい近いのか遠いのか、そのスケールをもとに質問を広げていくことは、有効な手立ての一つとなり得ます。
(略)自分と違うからこそ疑問は湧き、しかし自分と違うからこそ、自分のスケールだけで判断してはいけない。でも、嬉しかったり悲しかったり苦しかったりする感情に、違う体験ながら、どこかで共鳴する場所を見つけることはできるはずです。違う思考や行動を経験した他人の気持の一部だけでも、自分の何かの経験を重ね合わせることができたとき、相手に対するより深い理解と興味が生まれるのだと思います。」

阿川佐和子『聞く力 心をひらく35のヒント』76~78頁)


 やはり、実社会生活の中で、しっかりした成果を収めている方はよいことをおっしゃいます。

 
 安易な自己中心主義に気を付けながら、自己を相手にトレースする。

 もちろん、うまくいかないこともあるし、すぐには、わからないけれども、そこは悩めばよいし、やったあとは、本当によかったのか、改善点はどこかを反省する。

 そうしてドタバタドタバタとやっていきながら、正受、そして、慈悲の実践をすると同時に、その力を高めていく。

 
 仏性というものが、「悩んだり、苦しんだり、迷ったり」といったことをしないということであれば、一切衆生山川草木国土の中で、人間が一番出来が悪い。

 しかし、人間は、「悩んだり、苦しんだり、迷ったり」することを通し、よりよい、より適切な慈悲の注ぎ方ができるようになるものだともいえると考えています。


「大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ。」

(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)


 他者に慈悲を注ぎ込むため、悩み、反省しながら正受をし、ドタバタジタバタと生きていくというのが、仏道者生き方であり、禅門でいうところの「活溌溌地」であり、そして、「煩悩即菩提」というのでしょう。



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