あるかどうかわからないことは、ないものとして行動するしかない
「ゴーダマ・ブッダによると、当時の思想界で行われていた種々の哲学説、宗教説は、いずれも相対的、一方的であり、結局解決し得ない形而上学的問題について論争を行っているために、確執に陥り、真理を見失っているのです。(略)イエスともノーとも答えなかったことが、実は一つのはっきりした立場を表明しているのです。なぜ答えなかったかといいますと、これらの形而上学的な問題の論議は益のないことであり、真実の認識、正しいさとりをもたらさぬからであるというのです。
かれは種々の哲学説がいずれも特殊な執着に基づく偏見であると確かに知って、そのいずれにもとらわれることなく、みずから顧みて、真の人間の生きる道をめざしました。」
(中村元『原始仏典』20~21頁)
上座仏教の輪廻説を信じ込み、「輪廻しないことも、死なない以上、確かめられていないのだから、輪廻説を否定すべきではない。」という人たちに言うことができるのはこの程度のことでしょうか。
私たちの認識能力には限界がある。
したがって、ないと思っていることについてもある可能性がある。
だから、輪廻することを前提として、行動することも合理性がある。
けれども、すべてのことはある可能性があるのであるから、そんなすべての事態を想定して行動することはできないだろう。
だから、あるかどうかわからないことは、ないものとして行動するしかないだろう。
釈尊が、何が本当かわからない形而上学的な問題について、無記としたことが、その問題に関する存在を否定するものとして扱うことになる理路はこのようなものだろう。
「釈尊は霊魂の存在を認めていませんから、その立場から輪得思想は生れてきそうにもありません。」
(田上太秀『『迷いから悟りへの十二章』38頁』
あるかどうかわからないこと、そもそもないと思っていることについても、をすべてある可能性があるとして行動すること無理だろう。
宗教的な観点でいえば、ユダヤ教が正しく、キリスト教が正しく、イスラム教が正しく、ヒンドゥ教が正しく、上座仏教が正しく、大乗仏教が正しく……それらのことがすべて正しい可能性があることを前提として生きていくことは不可能だろう。
しかし、不確かな世界に生きることが不安であり、確かな「真理」を欲していて、やっと「真理」だと思い込めるものが見つかったと思いたい人の耳にはとどかないだろう。
ちなみに、日本テーラワーダ協会のスマナサーラ長老は、スリランカ出身の方ですが、最近になって、スリランカのテーラワーダの人たちは、カースト制を厳守していることを知りました。
「ここで注目しましたのは、そのカースト制度、大変厳しい。それで多分、今日は見えてないのですが、短大の能仁先生は仏教がスリランカに伝わる前の頃からヴァルナ制を仏教では認めていてというふうな可能性も示唆されています。同じ仏教と言っても、バラモンとクシャトリアの仏教と、それからヴァイシャとシュードラの仏教はちょっと説く内容が違っていてもいいのだというような話があるということです。(略)概ねインドでは、仏教はカースト制を受け入れないという立場だったのではないか、スリランカに来てからカースト制が非常に厳格に守られるようになったのではないか。そういうことに対して反発も随分起きている。」
(中村尚司「東南アジア上座仏教の現状と課題」『2020年度第1回国内シンポジウムプロシーディングス「アジア仏教の現在Ⅰ」』8頁)
テーラワーダとヒンドゥー教は両立できるものなのでしょうか……謎。
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