坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

仏道修行者と知能が平均以上の自閉症(その1)

1 自信の持てない仏道修行者

 ちょっとの勉強のつもりで、自閉症の本を読むようになったのですが、現在の自閉症の研究の知見を踏まえると、仏道に絡むいろいろな現象について、合理的に説明ができるように感じています。


 なお、念のためですが、最近の研究によれば、自閉症は、能力の欠落ではなく、脳のネットワークの器質的な構造が多数派に属していないことによるコミュニケーションの困難であると捉えられており、おそらく、マイノリティの個性に対する差別の問題であると捉えるのが適切で、これを疾患として捉えるニュアンスの「自閉症」という概念には、疑問があるのですが、他に社会的合意のある適切な概念がないようなので、以下、便宜「自閉症」という用語を使います。(注1)


 グリーフケアのボランティアの関係で、発達障害自閉症)の人がくることもあるときかされて、勉強を始めたのですが、たまたま仕事で担当(?)することとなった、それまでの私の視点では、寄行と思えるような人について考察をする中で、その人と、勉強していた自閉症の人の特徴とが一致することに気づきました。

 これが最初の切っ掛けでした。
 
 同じような人がいるのではないかと、自分の周りで、理解の難しかった人について、同様のことを当てはめた所、どうも矛盾するような言動が整合的に説明できることがわかりました。

 実際、別の業界で働いている友人から、「頭がいいけど、コミュニケーション能力が低くて、周りから浮いている部下」のことを聞かされて、自閉症であることを前提に、対応方法についてアドバイスした所、そのやり方でうまく行ったという話を聞かされました。

 そのうち、坐禅会や瞑想会で接する禅やテーラワーダの実践をしている人にも当てはめることが出来るのではないかと感じるようになりました。

 そんな検討の一端がしばらく前に投稿した「理系の人が仏道に興味を持つ要因?」という記事です。


 坐禅会や瞑想会で接する禅やテーラワーダの実践をしている人の矛盾する言動というのは、知的水準が高いのに、自己肯定感が低いことです。

 知的水準の高さは、素直に考えれば、自己肯定感の高揚に結びつくはずです。
 
 知的水準が高ければ、色々な問題の解決が容易になる結果、自己肯定感が増すように思われるからです。

 しかし、坐禅会や瞑想会で接する禅やテーラワーダの実践をしている人は、驚くほど自分というものに自信がない人が多い。

 自分のあり方、自分の生き方。

 そんなものに正解はなく、つまるところ、「自分のやりたいようにやればよい」類のもののはずなのですが、どうも、自信を持つことが出来ない。

  
 先日、とある地方の坐禅会を訪れ、以前から知り合いの若干久参の方に車で送っていただいたのですが、途中、雑談をしているときに、その方が、「やはり、ブレない自分が大切だと思う。」ということを真剣な口調で力強くお話になりました。

 とても明るい方で好感を持っていたのですが、このような人でも、根源的なところでは、自分に自信がないのかと驚きました。

 私が、坐禅に興味を持つようになり、いろいろな坐禅会にお邪魔し始めた初期段階のときに、熱心な在家の方から、坐禅の効果として聞かされて驚いたことは、その人が、坐禅の効果として、「本当の自分がわかる」と語ったことでした。

 私は、「自分探し」の類いを好ましいものと思っていません。

 人のあり方に「こうでなければならない」というものはなく、究極的には自分のやりたいようにやればいいことです。

 自分自身の学生だった1980年代から1990年代にかけて、海外に貧乏旅行に行くなどの「自分探し」が一部の人で流行ったことがありました。

しかし、結局、あれやこれや迷っているうちに、迷うだけで実際には何もせずに人生を終える、ということになってしまう。

 それなら素直に自分がやりたいと思うところを一生懸命やればよく、「自分探し」のようなことに時間を浪費すべきではないと思っていました。

 仮に、今の自分がダメで理想の「本当の自分」ではないと思うのなら、理想の「本当の自分」を目指して頑張ればいいだけの話としか思えませんでした。

 その頑張る入口でああだこうだと迷うのは、結局、情けない損得勘定の問題です。


 決断した結果失敗することが怖い。

 絶対に失敗したくないから迷う。


 自分探しなどその程度のものにしか思えませんでした。

 そんな考えですから、当時、「坐禅を通し、本当の自分がわかる」などと言われても、本当にそんな下らないことのためにやるものなのかと驚きました。

その後、禅の本も読むようになってしばらくして、「己自究明」などという言葉を知って、本当にそんなものなのだったのだ、と驚きました。

 言われてみれば、大切な感じがするけれども、私自身には、そのようなものを追求する実存的な必要性が理解できませんでした。

それは、病気などを避けるために医学の知識があった方がいいのだろうけれども、大学の医学部に絶対に入らなければいけないと思うような気にはならないのと同じことだと思います。

 つまるところ、「私」などという観念は、脳の神経系が作り出したフィクションであり、それが「本当はなにか」などと考えるようなものではないのです。

 フィクションである以上、本当なものであるわけがありません。


 なぜ、仏道の実践をする人は、自己を問題にしてしまうのか?

 最近になって、私にとって、問題とならない「自己」を、仏道の修行をする人が問題とする理由は、「自分に自信がないからである」と感じるようになりました。
 
 坐禅等の仏道の実践をする人は、心を強くしたい」、「心の問題を解決したい」という気持がどこかにあり、私自身、坐禅を始めた時には、このような気持ちがあった感じもします。

 自信がないから仏道の実践を始めるということは、よくよく考えると当たり前のことなのかなとも思います。


 しかし、なぜ、自信がないのかの原因を探る価値はあるように思います。

 
 禅にしろ、上座仏教にしろ、マニアックにやる人に対し、不安を抱くのは、坐禅等の瞑想の実践に力を入れすぎて、日常生活の質が低下するのではないかということです。

 実際、マニアックに実践をする人たちと話していると、仕事にしろ、家庭にしろ、何らかの問題を抱えている人が少なくなく、坐禅等の瞑想の実践が、そこからの逃避になっているのではないかと思われることも、少なくないように思われます。

 日常生活の中での生きづらさを解消するために、坐禅等に取り組み始めたのに、坐禅等にはまり込むことで、日常生活を犠牲にするような結果は矛盾です。

 仏道の実践は助道の跡にすぎず、道そのものではありません。(注2)

 道は、日常生活の中で、自分の能力を最大限に発揮しながら生きることにこそあります。

 坐禅等に一生懸命になりすぎてもいけません。(注3)
 
 坐禅等に一生懸命になりすぎることは、結局のところ、人生を精神科の治療だけで終わらせるようなものです。(注4)

 なぜ、知的能力が高く、問題に対する処理能力が高い筈なのに、仕事や家庭に問題を抱えてしまうのか?

 その点について、私は、最近、引きこもりの支援の関係で問題となって居る「知的水準の高い自閉症」であると捉えるとうまく説明できるのではないかと思っています。(続)

《参考文献》
(注1)菊池充・三邉義雄「自閉症の多様性を「測る」――脳科学からのアプローチ」金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』132~134頁
(注2)『今北洪川禅師から山岡鉄舟宛ての手紙』
「看経(かんきん)、礼仏、布施、作福などの事は、ただ助道の跡にすぎないので、道は必ずしも此処に在るのではない。深山窮谷に隠れて草衣木食するようなのは、幽人高尚の志の現われで道とは関係なしと言っても可い。」 
(注3)鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
110頁「多くの人が好奇心から坐禅を始めますが、それでは自分自身を忙しくしてしまいます。修行によって、より悪い状態になるなど、ばかげています。(略)あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校をやめてしまし、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。
 落ち着いて、日常の修行を行っていれば、自分の人格は強いものになっていきます。心がいつも気ぜわしいと、人格をつくる余裕がなく、うまくいきません。
(注4)松本史朗『仏教への道』
138頁「人間がさとりに至るための手段にすぎないとすれば、なぜ人間は苦しむために、愛するために、この世界にみずから生まれてきたのであろうか。また、人間がさとりに至ろうとして、それができなかった場合、彼のいっさいの労苦とその生活に、どのような意味があり得るのか。さとりを一つの客観的な目的として設定し、それに向って進んでいくという直線的思考は、結局のところ、小乗と呼ばれたものと同じではないのか。」
146頁「われわれがこの苦の世界に生まれ生きているのは、愛するためであり、働く歌目であって、苦から逃れるためではない。われわれにとっては、日々の愛や悲しみや労働の生活以外に、釈尊の悟ったさとりを現成せしめる道はないのである。」



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