坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

利他とは自利である

 慈悲とは、自分の生命を自分以外のために使うことです。


 昔から、ほかの人の役に立つことに興味があって、中高生の頃は、ボランティア活動の団体に入ったり、仕事も公益の実現に寄与できるものを選び、今でも、余暇には、傾聴のボランティアに行ったり、献血に行ったりしています。

 なぜ、このようなあり方がいいのか。

 悩んでいたこともありました。

 というのは、私は、とても利己的だからです。

 利己心がありながら、ほかの人の役に立つことをやりたいということが偽善ではないかとか考えたりしていたこともありました。

 人のために何かをやりたいというのも欲望で、いいものを食べたい、よい異性をだきたい、ほかの人の上に立ちたい、気に食わない人間に痛い思いを味わせたい、それと何が違うのだろう。

 他の人を幸福にしたいという思いも欲望に過ぎないのだから、利己的な生き方の方が正しいのではないかと思っていた時期もありました。

 もちろん、利己的なことは、自分にとっても、とても気持ち良いものに感じますから、それ自体魅力的です。


 そんなことを考えて、少し腐って、利己的に人生を楽しむことを優先しようと考えていた時もありました。


 今は、利己的なままで、ほかの人の幸福、ほかの存在の幸福を実現する行為をしていけばよい、それが倫理的な意味で「よい」ということではなく、私の衝動としてやりたいこととしてやるということでよいのだと思っています。


 うまいものを食べたい

 いい女を抱きたい


 そして、それらと同レベルで


 あらゆるものを慈しみたい


 それだけのことであって、別にすごいことでも、ほかの人より優れたことでもない。

 ただ、慈悲の衝動を発動したいだけです。(注1)

 
 元々仏教に興味をもった理由は、諸行無常一切皆苦といったヒリヒリ感のある世界観にリアリティを感じたことと、もう一つは、漠然と、何かほかの人によいことをすることを肯定するものではないか、と思っていたことでした。

 だから、私は、坐禅を始めた時も、悟りとか、見性とか、解脱などといったことには、あまり興味がありませんでした。

 悟りなどといったものは、仮にあるのだとしても、脳の中で起きる現象であり、所詮は自己満足の問題にすぎず、他者の幸福を実現とは異なるものだからです。

 誘われて、臨済禅の公案修行をするようになり、また、テーラワーダの瞑想会などに参加して、悟りとか、見性とか、解脱などといったものを真剣に目指している人たちと接するようになってからも、違和感を抱いるのが正直なところです。


 私は、悟りなどといったものよりも、「仏教は慈悲を以て主旨とする」(注2)という感覚の方があっています。

 
 テーラワーダは、自己の解脱を目指す究極的には私利私欲の考え方です。

 実際、瞑想に力を入れすぎて、よい仕事をし、よい家庭を築くということに目が行っていない人が多いと感じます。

 貪瞋痴という自己の欲望を滅したいという問題意識があっても、「自分がよくなる」ことしか考えていなければ苦労をするのは当たり前です。

 ブレーキをかけるのと同時にアクセルを踏むようなやり方ではうまくいくわけがないでしょう。


 臨済禅の公案修行をしている人も、見性をしなければ、本当の利他行為はできないと言いますが、正直、相当程度、修行をしているとされる人も、社会貢献などを意識した日常生活を送っているというわけではないようです。

 臨済禅に対する「花道が長く、本舞台が短い」(正直、本舞台がなく、花道を歩いていることに満足している人が多い)という批判は正当なように思います。(注3)



 私自身が、私利私欲の固まりでありながら、自分以外の存在のためにありたいという衝動をはっきりと意識するようになったきっかけの一つは、骨髄バンクにドナー登録をしていたところ、適合する患者さんが見つかったとの連絡を受けたことでした。

 その時、万が一、私の生命が失われるようなことがあったなら、その患者さんの生命も失われることになるのだということを強く感じました。

 私の生命の上に患者さんの生命が乗っている。

 私の生命に傷がついて失われれば、患者さんの生命も失われてしまう。

 私の生命は私だけのものではない。

 私の生命が私だけのものであれば、どんなに粗末にしてもよいだろう。

 自殺して、捨ててしまってもよいだろう。

 健康を度外視して、貪り食べたりしてもよいだろう。

 
 けれども、私の生命は、私だけのものではなくて、その患者さんのものでもあるのだ。

 だから、私の生命を大切にしなくてはならない。

 粗末にしてはならない。(注4)


 こんなことを考えていると、自分自身も愛おしく感じるようになりました。

 自分の生命の上に、ほかの人の生命を乗せると、自分の生命がより重いものになる。

 自分の生命がが、自分のものだけだったときよりもとても価値のあるものになる。


 よく女性はうつ病になりにくいという話を聞きます。

 その理由は、女性は子供を産むということを通して、自然と自分の生命の上に他者の生命が乗っているという感覚を自然と持つことができ、人生の充実感を得やすいからなのではないかと思います。

 わたしにも、子供はいますが、そこまでの思い入れはありませんでした。

 どちらかというと、仏道を学び、実践していく中で、こどもの存在のありがたさ、子供を支えさせてもらうことによって、自分の生命の価値を実感できるということを気づいて行ったという感じです。

 良くも悪くも、女性の社会進出や、不景気等を要因に、子供を産まなくなる女性が増えていることが話題になっていますが、何らかの形で、子供を産み、育てやすくする環境を整えなくては、人生に対する充実感を抱くことの難しさを感じる人が増えていくのではないかと思います。

 自分の生命を自分のためだけに使う人生はもったいないと感じます。


 利他や慈悲というものは、自分の生命の上に、自分以外のものを載せていくことにより、自分の生命の価値の重みを増していくものです。


 仏教は、人生の虚しさを解決することを目指すものです。


 すべてが移り変わりゆく世界の中で、何か「利」となるものも確実に失われ、やがて、私も死ぬ。

 そんな人生に価値があるのだろうか。

 
 当初は、瞑想だけによって、その問題を解決しようとした。

 「人生がむなしい」と感じる精神構造を改変しようとした。

 価値判断は、全ての解釈の問題にすぎない。

 だから、精神構造を変えれば、むなしさの問題は解消されるはずだと直観したのでしょう。


 しかし、「人生がむなしい」と感じることは、そう感じてしまう人にとっては、極めて自然です。


 脳の仕組みがそのようになってしまっている、脳の神経のシナプスのつながりがそのようなものになってしまっているのですから、精神構造の改変の作業は困難です。


 瞑想は極めて有益な手段であり、只管打坐は、簡易性、汎用性の点で、その最も洗練された形態であることに疑いを持ちません。

 しかし、人生の虚しさの問題を瞑想だけで解決することは困難です。


 瞑想は、人生に対する不安を解消してくれますが、人生それ自体を価値づけてくれるものではないからです。(注5)


 テーラワーダでは、瞑想の究極的な目的を、六道輪廻からの解脱に置きます。

 六道輪廻というバラモン教のフィクションを利用することによって、瞑想それ自体で、人生を価値づけようとしたものだと思います。

 だから、テーラワーダの人たちは、日常生活よりも、瞑想を重視する態度をとります。

 しかし、虚妄の世界に生きることは健全なものではありませんし、生命の使い方としてはもったいないなと感じます。



 大乗仏教の発見は、人生のむなしさを解消するためには、瞑想を頑張るだけではなくて、自分以外のほかの人の幸福を実現する活動をすることだということを見出したことでしょう。


 自分の生命の上に、他者の生命を乗せる。

 自分の生命を自分以外のために使う。


 そうすると、自分の生命が更に大きな価値を持つようになる。

 自分の生命は他者のために使わなければならない大切なもの。

 決して粗末にしてはならない。


 実際に、自分の生命を、他者のために使うと、自分の生命は更に輝きを放つ。

 自分の生命を使って他者の幸福を実現すると、自分自身の心も満たされる。


 それを称して利他とは自利であるというのでしょう。


(注1)鈴木大拙『禅』41~42頁

「禅は、要するに、自己の存在の本性を見ぬく術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。それはわれわれの心に生まれつきそなわっている創造と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせることである。一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。」


(注2)釈宗演『一字不説』2頁


(注3)

 1 秋月龍珉『公案』188頁

「故吉田清太郎先生(筆者が最後についたキリスト教の牧師、天龍の峨山老師に参禅された)は、「禅もよいが花道が長うて本舞台が短い。せっかく骨おって法を得ても、得たとたんにもう幕になるのでは立派な宗教とは言えない。花道を短かく、実人生への現成公案(その人自身の現前の問題)の適用を長く」と、常に言われていた。」


 2 秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』90~91頁

鈴木大拙発言)

公案の修行にやたらと時間をかけるのが、はたして、それほど必須のことかどうか。公案の数の多いのを誇って、たとえば『碧巌』百則・『無門関』四十八則を始めから終わりまで一則残らず全部、師の室内で学ばねば、宗旨が見て取れぬような教育法が、それほど望ましいことかどうか。(略)室内としては、むしろ公案体系一応の円成によって「禅者ひととおりの見識を体得」させて、ほんとうに大事な「日常底の修行」に早く意を注がしめるほうが、修行としてはより効果的ではないか。上(かみ)に向上の菩提を求むるは、下に一切の衆生を度せんがためにほかならない。いたずらに花道の長いのを誇るのは愚の骨頂である。ただこれは見性後の公案に関してであって、初一関の速成を計るいわゆる今日のインスタント禅は、これはまったく論外の沙汰である。


(注4)澤木興道『禅談』313頁

「社会のために勉強し、社会のために生きる、道のために飯を食い、道のために茶を飲むというように、道のためにするのでなければならぬ。道のために尽さねばならん身体だから、お互い不養生するわけに行かぬのである。自分のだけのためならどうでもよい。」


(注5)エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』341~343頁

「不幸の芽を摘むことばかりに気をとられてはいけない。それよりもたいせつなのは、幸福を増すような要素を積極的に見つけることだ。

(略)

重要な発見が、科学的な研究からもたらされている。それは、人がほんとうの意味で幸福になれるのは次に述べる三つの要素があわさったときだけだということだ。ひとつ目は、ポジティブな感情や笑いを数多く経験すること。二つ目は、生きるのに積極的にとりくむこと。そして、三つ目は、今日明日ではなくもっと長期的な視野で人世に意義を見出すことだ。

 ふたつ目の、仕事であれ趣味であれ、自分がしていることに積極的にかかわることは、三つの中でもとりわけ重要だ。

(略)基本レベルの豊かさ(住む家があり、十分食べ物があること)がひとたび得られれば、それ以上にどれだけカネがあっても人が感じる幸福度にほとんど差は生じない。(略)それよりも人を幸福にするのは、自分にとって大きな意味のある何かに積極的にとりくむことだ。これこそが楽観主義者の本物の証明だ。楽観主義者とは、大きな目的に向かって没頭したり、意義ある目標に到達するために努力を重ねたりできる人々なのだ。」




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