坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

応病与薬の方便(2)

2 現実的効果の重視



仏教を病に対する薬であると捉えると、病を現実的に治癒することができるかどうかが仏教の教義やその実践において重要な視点ということになります。

仏教は、その歴史の中で多様に変容してきましたが、原始的な段階においても、このようなプラグマティックな視点が重視されていました。



ブッダは、彼の教師としての目標が完全にプラグマティック〔実用主義的〕なものであることを、何度も繰り返し強調した。信者たちは、ブッダを偉大な医師と捉えるようになった――ダンマは彼が処方した薬であり、サンガはその投与を天職とする看護師たちである。このような解釈を支持する正典上の根拠は無いが、四聖諦の定式化が、当時の医学的慣行に従っているという、現代の研究者たちの議論は妥当なものだ。」

(リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』318頁) 



プラグマティックな視点の重視を示す仏典の記述として、一番メジャーなものはいわゆる「毒矢のたとえ」ということになるでしょう。



「ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。彼の親友、親族などは、彼のために医者を迎えにやるであろう。しかし、矢にあたったその当人が、『私を射た者が、王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるか、を知らないあいだは、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名をしらないあいだは、抜き取ってはならない』と語ったとする。それではこの人は、こういうことを知りえないから、やがて死んでしまうであろう。それと同様に、もしある人が、『尊師が私のために、世界は常住であるか、常住ならざるものであるかなどということについて、いずれか一方に断定して説いてくれないあいだは、私は尊師のもとで清らかな行いを実修しないであろう』と語ったとしよう。しからば、修行を完成した師はそのことを説かれないのであるから、そこでその人は毒がまわって死んでしまうであろう。」

(「マッジマ・ニカーヤ」の引用。中村元『原始仏典』61頁)

*マッジマ・ニカーヤ=数ある仏教経典の中でも一番古い「パーリ五部」の一経である「中部経典」のこと。
 

たとえば、禅の伝法は虚構です。



「『伝統』の系譜は、人名と人名を線でつなぐだけでなく、両者のあいだでおこった開悟と伝法の物語ともなって成り立っていた。それらの物語が史実でないことは、つとに禅宗史研究の常識となっている。」

小川隆『中国禅宗史』63頁)



ある禅の団体では、その実践により「釈尊の悟りが追体験できる」などと称しますが、禅宗の前提である大乗仏教釈尊の直説ではない以上、事実としては間違いです。



「大乗仏典に記されていたことは、ブッダが亡くなって相当な年月から経ってから後世の編者によって編纂されたことで、ブッダの直接の教えではないとする考え方は『大乗非仏説』と呼ばれる。近代仏教学では、この大乗非仏説が前提になっている」

島田裕巳ブッダは実在しない』72~73頁)



禅宗史を見ていくと、禅におけるある立場が魅力のあるものとして力を付けてくると、それに合わせて伝法の伝説が創られていくということがよくあったということがわかります。

特定の時代、特定の場所、特定の人たちの抱える病に対し、実効性のある手段を提示した立場が有力化し、時代、場所、人が変わり、病が変化し、従前の手段では対応できなくなると、かつて一世を風靡した立場が衰退するというのが禅の歴史、そして、仏教の歴史です。

このような視点からすると、ある仏教の実践が正しいか否かは、その実践が標榜する目的が達成されるか否かという明確な基準で判断することができるという当たり前と言えば当たり前の帰結に落ち着くことになりそうです。

建長寺派の管長をされていた菅原時保老師の次のような言葉は、このような趣旨を含むものと思われます。



「禅は実際である。決して理屈でない。」

(菅原時保『禅窓閑話』2頁)


 
ある仏教の立場が正しいか否かは、理屈だけでは分かりません。誰もが言葉では尤もなことを言うことが可能だからです。

とはいえ、判別の方法は容易です。その言葉に沿った現実的な結果を出しているか否かをみればよいからです。



「いまの日本はちょっとした瞑想ブームで、それに関する言説の中には、瞑想があたかも『万能の処方箋』であって、それを実践すれば『仕事も人間関係も上手くいくし、病気も治るし、人格もよくなって、何もかもが成功します』といったような『誇大広告』をするものもある。しかし、瞑想というのは、もちろんそんなものではありません。

実際、『私が言うとおりに実践すれば、全て上手くできますよ』といったことを、瞑想指導者が言葉の上では主張しているのだけれども、ご本人の現実の振る舞いにおいては、その理想が言葉のとおりにまるで実現できていない、といった事例を、私はたくさん見てきました。『瞑想の先生を選ぶ際には、その先生の『発言』だけではなく、その人の『為人』、つまり本人の現実の振る舞いを、よく観察して判断してください』と私が強調するのには、そういった背景もあるわけです。」

(魚川発言。プラユキ・ナラテボー・魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』215頁)



仏教の実践が人格を向上させるということを標榜する団体もありますが、実際に、その団体に人格的に優れた人がどれくらいいるのか、その指導者が本当に人格的に優れているのか、そもそも、仏教の実践をしていない人でも、そんな人はいるのではないかなどと観察してみることが大切なのではないかと思います。

たとえば、中東で医療活動を行ないながら現地の灌漑工事の事業をしていた中村哲氏、スーパーボランティアの尾畠春夫氏、東日本大震災のときに消費者金融で借金をして物資を揃え被災地に赴いた江頭2:50氏など現代でも人格的に優れていると衆目一致している方はいらっしゃいますが、彼らは禅等仏教の実践などはしていません。他方で、現代において、仏教の実践をしている人の中で彼らを超える人格者はいないのではないかと思われます。私自身の実感からすると、禅等の仏教の実践は元々心が病んでいる人がするものであり、そのような人たちが、平均的な人よりも、高度な人格を具えることは稀で、人格を向上させる上では、特殊な実践ではなく、日常の努力や個人の素質が要因として大きいように思われます。

このような観点からすると、日常生活でどのような人と付き合ってきたのかということが案外重要なのかなと思います。

知人の経営コンサルタントをしている方が、元々大手企業の幹部であり、当時、とある禅の団体の師家をしていた方と会ったときの感想として、その師家の方がかつての企業での肩書きに触れていたと述べた上で、「仕事でその程度の人もちろんそれ以上の人とも多数会っているので、何とも思わなかった。かつての肩書きを除けば俗っぽい人物だったから話を聴いても何ら感銘を受けなかった。」とおっしゃっていたことがありました。

自分には合わない実践をしないために、人に対する審美眼を持つ上でも、普段から人格的に優れた人、ボランティア活動や社会福祉に関わる活動をしている人、あるいは、社会的に成功を収めた人と付き合うようにしていくことも大切なことのように思います。
 


3 非形而上学



現実的効果を重視するということは、現実的な問題解決とは関係ない「真理」を重視しないということになっていきます。

先の毒矢のたとえでいえば、誰が毒矢を射たのかなどということが、この「真理」、すなわち、形而上学的問題になります。

これも初期経典から認められる仏教の特徴的な考え方になります。



「ゴーダマ・ブッダによると、当時の思想界で行われていた種々の哲学説、宗教説は、いずれも相対的、一方的であり、結局解決し得ない形而上学的問題について論争を行っているために、確執に陥り、真理を見失っているのです。(略・このような問題について)イエスともノーとも答えなかったことが、実は一つのはっきりした立場を表明しているのです。なぜ答えなかったかといいますと、これらの形而上学的な問題の論議は益のないことであり、真実の認識、正しいさとりをもたらさぬからであるというのです。
中村元『原始仏典』20~21頁)

形而上学論議は、それに耽る人にとっては、たしかに興味は尽きないであろう。
 しかしそれは、他の原理による別の形而上学とほとんどの場合に論争を引きおこし、しかもその論争はどこまでもつづいて決着はつけられず、所詮は知のための知の饗宴にすぎなくて、多くは不毛に終わる。それはまた、現実そのものにはなんのプラスにもならず、まして実践からはるかに隔たってしまう。」
三枝充悳『仏教入門』73頁)

目の前に展開する現実に一定の法則性があることは間違いありません。

たとえば、夢から目覚めるという特殊な例を除いては、今、パソコンを操作している私が、次の瞬間、宇宙空間にいることになったり、石になったりすることはありません。リビングの扉を開くと、1時間前にはそこには廊下があったはずなのに、いきなり大海原になったりすることもありません。世界は変化しますが、全く不条理な変化ではなく、そこには連続性があるように思われます。

私たちの世界には、五感では感受できないけれども、五感で感受したものを貫く一貫した法則性という意味での真理、すなわち、自然の法則があることに間違いないかと思われます。

外科の治療や、携帯電話といった道具も、このような自然の法則を踏まえたものです。

応病与薬の方便である仏教の教義やその実践も、このような自然の法則を踏まえたものであるはずであり、そうでなければ現実的な効果は生じないでしょう。

その意味で、仏教の教義やその実践は、現象の背後にある法則性という意味での真理を無視するものではないとされます。



ブッダが哲学的には首尾一貫した教義を提示することに、関心を抱いていたとは思わない――彼の関心事がプラグマティックなものであり、聴衆の行為を教え導くことにあったことを示す証拠は、山ほどある〔からだ〕。他方、私はまた、彼がそのような思想の構造を発展させ、彼のプラグマティックな忠告の土台に据えたことを示す証拠は、それに劣らず妥当性の高いものだという結論にも達している。」
(リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』324~325頁)
 


とはいえ、このような真理は、感受された感覚から推認をしたものにすぎません。

その意味で、この種の現象の背後にある真理は、現象それ自体よりも不確かなものです。

科学の方法論における帰納主義や反証主義が示すとおり、どんなに正しいと思われる真理とされるものも、それに反する一回の現象が感覚された時点で価値を失います。

ですから、現象から推測された真理よりも、感受された現象それ自体、それが重要なものになっていくことになろうかと思います。  



4 現実の肯定



病の治癒のための現実的な効果を重視するという観点から、仏教では現実を重視することになります。

特に、日本の仏教は、現実肯定の色彩が強いものとされます。



「中国の議論に対して、日本でもそのまま受け入れている面があると同時に、さらにそれを一歩発展させている。それが『草木発心修行成仏記』などにみられる説で、衆生との関係や空の絶対の立場を離れて、一本一本の草や木がそれぞれ自体で完結し成仏しているというものである。ここでは仏の絶対の立場からみるという前提がきわめて弱くなり、平等の真理性といういわば抽象的な次元ではなく、個別具体的なこの現象世界のいちいちの事物のあり方がそのまま悟りを実現しているという面が強くなる。(略)

あるがままのこの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する思想は、じつは草木成仏というだけにかぎらず、よりひろいすそ野をもち、古代末期から中世にかけての日本の天台宗でおおいに発展し、天台宗のみならず仏教界全体、さらには文学・芸術にまで大きな影響をおよぼす。それが本覚思想とよばれるもので、草木成仏はその一局面をなすものである。」

末木文美士『日本仏教史』170~171頁)



禅宗の多くの立場でも同様に、目の前に展開する現実をそのまま肯定するという観点が重視されます。



「黒いものを黒いといい、白いものを白いと云うのが禅の本領である。柳は緑り花は紅い、烏はかあかあ、雀はちうちう、みんな同じ道理である。此の道理に徹底した人を悟ったと称して居る。

禅はどこまでも説明のできぬものである。何等の前提なしに、すべてを断定する。それ自からが其れ自身を証明する、決して他の弁証を待たない。天は天なり、地は地なり、それで万事を尽しておる。此処を言詮不及とも、意路不到とも云う。

私どもは何の為に生れたか、何故死ぬるか、這んなことは問題にならぬ。何の為でも、何故でもない生まれたから生きてをる。死ぬから死ぬるのである、それ以上何と理屈をつけても詮無いことである。生を生とさとり、死を死とさとれば、それでよろしい。人生のすべては斯くして解決されるのである。」
(神保如天『従容録講話』序)

*言詮不及=ごんせんふきゅう。言葉では説明できない。
意路不到=いろふとう。理屈では説明できない。



「禅の修行は、迷いから悟りへ、凡夫である自分を『仏』という、自分とは別のなにかに改変するものではないとされています。あくまでも『今ここにある存在はすべて仏としてある』ことの認識を悟りとするという、徹底的な現実肯定のもとに実践されるものとなっています。」
(石井清純『禅問答入門』25~26頁)



悩み、苦しみ、迷う、このありのままを肯定する。

単なる現状維持的な追認ではなく、「悩み、苦しみ、迷い」といった現実の改善を目指そうとする態度を込みにして、肯定するという点に、単なる現状維持の退廃的保守主義との相違点があると思っています。



「浄土でぽかんとしていては、手持ち無沙汰でしようがないに決まっておる。還相廻向とかいうことはいやでもしたくなるであろう。して見るとこのままの穢土がよいのでなかろうか。痛い事も、つらい事も、苦い事、悲しい事、惨めな事もあるので、面白いというてはいかぬか知らぬが、まあそれでも可もなく不可もなしか。(略)

悪いことがある、悲しい事がある、そのままを肯定して、忍受するのでない。悪い事を善くする、悲しい事は嬉しくする、その後から又悪い事、厭な事が簇がり起る、起れば又これを善い方へ転ずる、転ぜんと努める。これを穢土というてもよし、浄土というてもよし、とに角、こんな塩梅でせつせつとくらす。而して離有なみだを流す、死んでからは、他力でどこかへ行く、又行かなくてもよい。」

鈴木大拙鈴木大拙『百醜千拙』165頁)





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