坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

慈悲の実践方法

1 はじめに



このブログを読んでいる方から、「現実の社会関係や家族関係の中での喜捨を含めた慈悲の実践の仕方」を知りたいとのお話がありました。

どんな構成で説明したらよいかで少し悩みましたが、一番大切なことは、私たちの生きる根本のところに、「現実の世界を愛している」という気持ちがあるのですから、その気持ちに素直になり、行動に現していくことではないかと思います。



「厭世家たちがいかに否定的に考えようとも、人生は、結局、何らかの形における肯定だからである。」
鈴木大拙『禅』43頁)


 
「慈悲」というと、高邁にも感じますが、人間は元々群生動物なのですから、愛する気持ちを素直に日常生活の中で現わして行けばよいのであると思います。
 
「よい仕事をし、よい家庭を築き、社会や環境に貢献して、最後、然るべき時に死ぬ」というごく普通の生活がすべてであるように思います。

ごく普通の生活を超えて、自分だけがよい思いをしようなどと考えるとおかしくなってくる。

現実の世界を愛しているがために生きているにもかかわらず、愛されようとするからおかしくなる。

 
 
とある映画批評のウエブページの中に「ワンダー 君は太陽」という映画の紹介があり、その中に名言・名セリフとして



「正しいこと、親切なこと。選ぶなら親切なことを」

https://eigahitottobi.com/article/72240/



という言葉がありました。

とてもよい言葉だと思いました。

何が正しいのかはイメージをしにくいので難しいですが、目の前の人に「親切」をすることは、具体的な行為のイメージがしやすいからです。

目の前の人、目の前の環境に対して、何が「親切」なのか、創造力を働かせて、実際に行動に移していくことが大切なように思います。



「禅は、要するに、自己の存在の本性を見ぬく術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。(略)それはわれわれの心に生まれつきそなわっている創造と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせることである。一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。」

(鈴木前掲書41~42頁)



2 「慈悲」の基本は「仕事」



親切の現し方として、禅宗では、「仕事」が重視されます。



「仏法には、何等、不思議も奇特事もあるのではない。若し、悟ったが為めに変った人間となったと云う者があるならば、それは悟りの病いに犯されたものである。謂ゆる『悟り了れば未悟に同じ』で、政治家は政治家、軍人は軍人、商人は商人、農夫は農夫、其の職分を守り、業務に勉励して行くほかに、別段、変ったことの有るべき筈はない。」

(釈宗演『禅』122頁)

「『臨済録』の言葉を何か見てみましょう。

無事(ぶじ)是れ貴人(きにん)、但(ただ)、造作(ぞうさ)すること莫(なか)れ、

祇(ただ)是れ平常(びょうじょう)なり。

汝(なんじ)、外に向って、

傍家(ぼうけ)に求過(ぐか)して脚手(きゃくしゅ)を覓(もと)めんと擬(ぎ)す。

錯(あやま)り了(おわ)れり。 (略)

意味はどうなるかと申しますと、無事であること、それこそがもっとも尊い。無事の人こそが尊いんだと。(略)
『無事(ぶじ)』という言葉自体が、これは非常に面白い言葉で、例えば中国人は、朝起きて太陽が上がれば畑に行って耕す。それで太陽が落ちて夜になれば帰って休むと。そしてご飯が喉へ通って、それに水が飲めればいいんだと。昔の中国の農民はそう考えていたわけですね。それが無事なんです」

(鎌田茂雄「聖典を読む―『臨済録』― 」NHK教育テレビ『こころの時代』(1988年3月20日放送)

「長く貴族生活に耽溺していたトルストイは、中年に及んで人生の意義を懐疑し始めて虚無思想の結果いく度か自殺しようとしたそうである。ところが或る時彼は突如として一の真理に契当した――人間は生を欲するのが順当である。しかるにその生を求むべき人間が死を追わんとするが如きは、どこかに誤りがあるに違いない。一体、人生の意義などといおうことを考えて懐疑に陥るのは、怠惰な生活を送っているからである。孜々として働いているものを見よ。彼らは人生の意義なぞというものについては何の疑惑も持っていない。一体、人生問題なぞというものは、生活に隙があるから起って来るのだ。そんな懐疑は有閑階級の戯論である。怠惰こそ一切罪悪の根本である。人生の意義なぞというものは、勤労者の日々の生活によって自ら体験さるべきものなのだ。トルストイはこう考えて自ら労働の生活に入った、といっている。」

(前田利鎌『臨済荘子』238頁)



仕事のあり様については、人それぞれ能力の差もありますし、特性もありますから、「其の職分」に応じて、短者は短法身でやるしかなかろうと思います。

機根の優れた人は、中東辺りに行って、医療活動や農地整備事業をやったり、大規模災害が起きた時には、消費者金融に行って資金を作って物資を購入し、これをトラックで被災地に持っていくなどするのでしょう。

法身の私は、そこまではできないので、こんな感じでやっています。



仕事を一生懸命にやる

家事を多少は(汗)やる

子供の勉強をみる、遊んで欲しいというときには遊ぶ

献血をしに行く

骨髄バンクにドナー登録をする

ボランティアの団体に所属してボランティア活動をする

お菓子を作って坐禅会にもっていき、茶話会等の際に配る

通勤退勤の際、自宅と最寄駅との間の道に落ちているゴミを拾う(ただし、新型コロナの問題が起きてからは休止。仕事が繁忙になりそうなので当分再開しない見込み)

スーパーやコンビニのレジで会計をする時、「おねがいいたします」と言って籠を渡し、商品を受け取るときには「お世話様でした」と声掛けをする

誰に対しても敬語を使う

挨拶を心がける

近所の道に落ち葉がたまっていたら掃いて始末をしておく

燐家が高齢女性の一人住まいなので、ごみ捨てをしにいくときに出くわしたら、ごみを預かり捨てに行く



……書いていて少し恥ずかしくもありますが……。



衆生本来仏也」。

自分自身が、たとえ、小さくても既に仏であるという自覚を持ち、少しでも多くの、少しでも大きな「親切」を繰り返していくことが、わかりやすい「修証一如」の端的ではないかと思います。



「修行とは、今ここで自分が仏道としてはどうしたらいいか――この工夫である。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』142頁)



このような親切をする上で大切なことは、



「陰徳」

「得をしないこと」

「世縁随順」

「悩み、苦しみ、迷い」



ではないかと思っています。



3 「陰徳」



まず、大切なことは、報酬や給料を得る約束の上での仕事ならともかくとして、そうでなければ、感謝の言葉を含めた対価を求めないことではないかと思っています。
 
禅宗では、「陰徳」と呼ばれる態度が大切なものとされています。



「凡そ、善行は、二つに分つことが出来る。積善と隠徳が即ち是れである。而して、宗教的善行は隠匿に属するものであって、報酬を求むる心の無い善行が隠徳である。然るに人の情として、小善も広く伝えられんことを希(こいねが)い、大悪も人に知られざらんことを望むの弱点がある。之は甚だ宜しくない。左手(さしゅ)に善事を行うて、右手(うしゅ)に知らしむる勿れと云う箴言もあるくらいで、隠れたる善行は、絶対的の善行である。右手に与えて左手に受けんとする相対的善行は卑しむ可きものである。」

(釈宗演『快人快馬』116~117頁)



親切といっても、自分が好きでやっていることであり、感謝を含めた対価を期待して行うことは、押し売りのようなものです。

近所の掃除などを早朝にやるときには、誰も見ている人はおりませんが、それでもやることが大切だと思っています。

親切にすることは、欲望に基づいて行動しながら、欲望を離れる技術ともいえますが、そこに対価を求めてしまうと本末転倒になるかと思います。

ボランティア団体で活動していると、自分を評価されたいという思いに無自覚で、親切よりも、自己評価が先に立ってしまい、ほかの団体を殊更非難したり、自分の団体に利用者が来ることに力を入れすぎてしまうような方も見受けられます。

どのようなプロセスであれ、不幸な人が幸福になればそれでよく、相手方が自分たちの団体よりもよりよいと思う方にいくのであれば、それはそれで親切のはずであり、自己評価が先に立ってしまうとおかしくなるように思います。

私自身の卑近な例では、家事をする時でも、雑巾がけや窓ふきの清掃等を黙々とするようになってから、夫婦関係がよくなってきたような感じがします。



とはいえ、「陰徳」についても、神経質に考えすぎると却っておかしくなるようにも思います。

搾取をしてはいけませんが、肉体の健康がなければ、親切をしようと思ってもできないわけですから、どこかで対価性のある仕事をしなければなりません。

また、献血のなどの際に、アイスやお菓子などが出ることもありますが、これもありがたくお受けしています。

お菓子を作ってもっていったときに食べていただけるとうれしいものですが、逆にいえば、どなたかから何かをいただくようなときには、ありがたく受け取ることも、それ自体親切かと思います。

何よりも、この肉体は利己的にできていますから、多少は喜ばせてやった方がよく働き、結局は、親切につながっていくのです。

何が「親切」かということに軸にして考えるとうまく行くのではないかなと思います。



4 得をしないこと



「陰徳」と同義かとも思いますが、「得をしない」ということも大切な観点です。

少し前のブログにも引用しましたが、得をしようとすることが、うつ病の要因である可能性があるとされています。



「近年、平等という社会基盤がうつ病と関係することを示唆する脳科学的研究が行われました。他者と金銭を分けるというゲームを実験として行い、自分が損をする場合、自分が得をする場合、他者と公平に分け合う場合という三つの状況で金銭を分けるときの扁桃体の活動量が比較検討されました。その結果、扁桃体の活動量は、自分が損をする場合に高まりましたが、それ以上に、自分が得をする場合に高まることが明らかになりました。

これは、集団の中で自分だけが損をした場合には、生存するために不利益な状況になったという直接的な危機による不安が扁桃体へ伝わり、活動を上昇させますが、自分が得をした場合には、他者に恨みや妬みといった悪感情を抱かせて集団から孤立するのではないかという間接的な危機による不安が扁桃体に伝わり、活動をより上昇させたためではないかと推察されます。

一方、この実験では、他者と公平に分け合う場合には扁桃体はほとんど活動しないことも明らかになりました。公平、すなわち平等という条件は扁桃体の過剰な活動を抑制し、扁桃体に起因するうつ病の発症を抑制すると考えられます。」

(山本 高穂「脳の進化から探るうつ病の起源」『第11回 日本うつ病学会市民公開講座・脳プロ公開シンポジウム in HIROSHIMA 報告書』
http://www.nips.ac.jp/srpbs/media/publication/140719_report.pdf6~7頁)

【参考】
文明の発展と仏教の起源
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/06/09/213324)



このように考えると、社会関係をよくすることに力を入れる大乗仏教的な考え方の合理性がわかりやすいかと思います。



「サトリとは損すること。マヨイとは得すること。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』142頁)

 

このような沢木興道老師のお話ももっともという感じがします。



同時に、煩悩の滅尽という自利を目的とする上座仏教の瞑想の実践の問題性もわかるような気がします。

そこには、煩悩をなくして楽になりたい、輪廻から解脱したいという、ほかの人よりも得をしたいという欲望がどうしても残るからです。

そこで、上座仏教の世界でも、将来の目的の実現を企図して実践をしないように注意がされます。



仏道修行においては、結果を出そうとしてはいかん。解脱をしたい、悟りを開きたいという強い欲望は、おまえさんの解脱を阻む欲望になってしまう。おまえさんは自分が望むだけ、昼も夜も必死に修行に打ち込むことができるが、達成したいという欲望がまだ残っているのなら、決して平安を得ることはできんじゃろう。」

(アーチャン・チャー(星飛雄馬他訳)『手放す生き方』223頁)



しかし、人間の行為は何らかの目的をもってなされるものですから、なかなか難しいものがあるように思います。

また、心の問題の要因は、心それ自体ではなく、家族環境や労働環境といった人間関係の問題が大きいのではないかと思われます。

坐禅等の瞑想は、心の不安を落ち着かせる対症療法にはなりますが、要因であるところの人間関係の改善には向かいません。

上座仏教において、出家が重視されるのは、要因である人間関係については、これを切り捨てることによって、精神の安定を実現しようとするもののように思われます。

 親切にすることは、自然と人間関係の改善にも向かいますから、坐禅等の瞑想に余り一生懸命にならず、日常生活における親切に力を振り向ける方が生産的でもありますし、望ましいようにも思います。



5 世縁随順



先にも少し触れましたが、仕事をするとはいっても、その前提としては、この肉体が健康でなければなりませんから、休むべき時には休まなくてはならないものと思います。

ブラック企業」や「やりがい搾取」などが許されてはなりません。



「昔の人が『能く働き、能く休む』といっているが、此言葉は大いに味わうべきことであると思う。休むというても、不道徳の遊びをするのではありませぬ。大事業のみではない、何事をやろうとする能く働き、そして能く休まねばならぬ。(略)

いつ何時でも、眠むるということは容易ではありませぬ。朝から晩まで追い廻されて、安らかなる眠むることも能きず、一生あがき死に死んで了うのであります。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』57頁)



親切や仕事をするためには、この肉体もきちんとメンテナンスしなければならない。

親切を繰り返していくと、そのうち、この肉体が、「自分」一人のものではないというような気がしてきます。

子育てに力を入れている方や、会社経営をしている方等は、このことを強く思うのではないでしょうか。

私自身は、骨髄バンクにドナー登録をしていたところ、適合する患者さんが見つかったときに強く思いました。

自分の体が不健康になれば、自分だけではなく、その患者さんの生命が失われることになりかねない。

そう考えると、この肉体の生命が尊く感じられました。



禅宗では、「自利利他」といい、通常、まず、「自利」を目指す修行をし、それが達せられた上で、次に、「利他」の修行をするのだといわれます。

しかし、私は、このような捉え方には疑問を感じます。

「利他」をすることそのままが、「自利」なのです。

 

このような観点で見ると、平生、この肉体のためにやると考えていることでも、この肉体を通して、現実の世界によい影響を及ぼしていくのだという考えでやった方がよいのではと思います。



「社会のために勉強し、社会のために生きる、道のために飯を食い、道のために茶を飲むというように、道のためにするのでなければならぬ。道のために尽さねばならん身体だから、お互い不養生するわけに行かぬのである。自分のだけのためならどうでもよい。」

澤木興道『禅談』313頁)

 

働くべき時に働き、休むべき時にしっかりと休む。
 
その時その場でなすべきことをきっちりとやる。



このことを禅宗では「随順」などと呼んだりします。



「真箇の正禅は世縁に随順して決して世縁と相違したり違反したり致しません。若し萬一、萬々一、世の中の実生活に違反したり、相違したりする様なことがあれば、それは、未だ正禅の堂奥に登らざるお人の夢路であります。――苟も正禅の堂奥に到達された御人であるならば、水に入っては水に同じく、火に入っては火に同じでなければなりません。真箇世縁に随順することが出来ますれば、坐禅をなさらなくとも、禅書を御覧になさらずとも、禅の提唱をお聞きになさらずとも、それで完全の正禅者であります。」

(菅原時保『碧巌録講演(其二)』61~62頁)



「真箇世縁に随順することが出来ますれば、坐禅をなさらなくとも、禅書を御覧になさらずとも、禅の提唱をお聞きになさらずとも、それで完全の正禅者」とは強い言い方ですね。

鈴木大拙先生は更に力強いです。



「菩薩はこの如くにして随順衆生の願を果たさんとするのであるが、この随順は、たとい虚空界が尽きても、衆生界が尽きても、衆生の業が尽きても、衆生の煩悩が尽きても、究尽することはなかろう。〔この願は〕念念に相続して間断あることはないであろう。身と語と意との業において疲厭することはないであろう」

鈴木大拙の著作からの引用。竹村牧男「鈴木大拙と華厳思想」『中央学術研究所紀要 第47号』17頁)



「正念相続」には様々な理解の仕方があります。ありがちな考え方は、坐禅等の瞑想中の特異な感覚の継続と捉えるようなものですが、私自身は、鈴木大拙先生のように、短者は短法身でするしかないとはいえ、一瞬一瞬、人や環境にやさしくしたり、貢献したりしていくことに意を払って実現をしていくという理解の仕方がしっくりときます。




6 「悩み、苦しみ、迷い」



とはいえ、何が本当によいことなのか、迷うときも少なくありません。

この肉体の保全と肉体の外部に対する親切とのどちらを優先すべきかや、家族と家族以外の人とのどちらを優先すべきかなどといった問題に悩むこともあります。

親切の基本は、相手の欲するものを与えることですが、それがよくわからないこともあります。

時には、相手の欲しないことをすることが親切ということもあるでしょう。

アルコールや薬物に依存している人に対しては、このようなものを求めて来ても、頑として断り、そのようなものとの関係を断つように働きかける方が親切でしょう。
 
 

私たちの目の前にある問題は、似たようなところがあったとしても、それまでと全く同じ問題ということはありません。

目の前にある問題は、すべて明瞭な答えのある問題ではありません。

私たちは、問題ごとに、不完全ながらも回答を出して、それにぶつかっていかなくてはなりません。

答えの判然としない問題に出会ったときは、素直に「悩み、苦しみ、迷い」を抱えるまま、少しずつでも問題解決を図り、どのような結果であれ、その結果をきちんと引き受け、反省し、次に少しでも生かせるようにしていくことが大切であろうと思います。

「陰徳」の考え方の正当性は、自分のやっていることが本当に相手によいことなのかわからない以上、相手からの対価を期待してはならないというところにもあろうかと思います。



諸行無常の世界では、未来に何が起きるのか、厳密にはわかりません。

ですから、私たちは、よく不安になり、悩み、苦しみ、迷います。

仏教に興味をもった人は、このような悩み、苦しみ、迷いが解消されるのではないかということを期待している人も多いように思います。



けれども、私たちは、そもそも不安な存在です。

大切なことは、これまでずっと不安でもこうして生きているということです。

ですから、悩み、苦しみ、迷いやそれらに基づく不安はあっても何ら問題がないものなのです。



「『安心問答』は、一般に恵可がはじめてダルマに師事したときのものとされる。(略)それらの原型となる問答がすでに敦煌本『二入四行論』雑録に見える点に注目したいのである。

ある男が可禅師にたずねた、『わたしに心をおちつかせてください』

答、『君の心をもってきなさい、君をおちつかせてあげる』(略)

煩悩を断じてネハンを得るのではない。煩悩を断ぜず、ネハンを得る必要のない本来の心にかえるのが、ほんとうの安心である。

要は、各自の心のありようにある。不安な心のほかに安心する心はないのだ。」   
(柳田聖山『禅思想』44~45頁)

 
 
とはいえ、不安が強すぎては、この肉体を十分に活用できません。

強すぎる不安を制御して、親切ができるようにする技術の一つが坐禅等の瞑想なのではないかと思います。

 

「ボサツは利他を目的として静慮パーラミターにはげむ(略)精神が散乱していたのでは有意義な活動ができない。静慮は精神を安定させる作用をする。(略)大乗のボサツたちは静慮パーラミターを実践することによって、すべての衆生を不幸から救い、幸福を授ける。ここでは静慮は独善的な沈思黙考ではなくて、精神力を発揮する社会的活動の原動力となる。」
渡辺照宏『仏教』176頁)



この肉体以外の他者、社会、環境のためにどんな親切ができるか悩み、苦しみ、迷いながら生きていく人生は素晴らしいものであるように思います。

 

「仏教が提示しうる『菩薩の倫理』『菩薩的な生き方』とは、自己の欲望・願望を満足させることを追求する『自己中心的な生き方』を捨てて、他者の悩み・苦しみをともに悩み、苦しんで、決して上から目線ではなく、同じ立場に立って、その軽減と解決に努める『利他行』に他ならない。そして、すべての人が私にとって何らかの形で利他行を行っている菩薩である、『誰もが菩薩』という意識をより多くの人が持つなら、対立から感謝へと人間関係は変化し、平穏な社会が実現することも可能であろう。」
(桂紹隆「仏教の立場から」(2015年度 京都・宗教系大学院連合 公開シンポジウム)『京都・宗教論叢 第11号』13~14頁)



悩み、苦しみ、迷いながら、少しでも親切をし合って、愛し合う。

誰もが普段の生活でやっている何とも平凡なことです。

衆生本来仏也で、私たちの平凡なあり方には元々何も問題がないのです。

その平凡に疑問を感じるのが何よりの病です。

仏教の教義や実践は、生きていれば誰もがやっているはずの現実を愛していることを自覚させるための応病与薬の方便であり、特に語るべきものはないのです。



【参考】関連する記事に次のものがあります。
本当の利他行為
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/09/04/175015)



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