【参考資料】「苦」ですけれど、何か?
「すべてが無常であることに、疑いはない――だからといって、思い煩うことがあるだろうか?」
(リチャード・ゴンブリッチ(浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』390頁)
四連休に、積ん読状態だったリチャード・ゴンブリッチの『ブッダの考えたこと』を読了いたしました。
どちらかというと、原始仏教や上座仏教に近い考え方を整理した本なのですが、冒頭に引用した言葉が禅的で気持ちよく感じました。
苦を断滅しようというのが上座仏教なら、苦を受け入れてやろうというのが禅ですね。
鈴木俊隆老師の『禅マインド ビギナーズ・マインド』は名著ですが、私が一気にもっていかれたのが、こちら。
「私が死ぬとき、死に行く瞬間、私が苦しんだとしてもOKです。それは苦しみのブッダだからです。そこになにも混乱はありません。誰もが、肉体の苦しみ、精神的な苦しみでもがいているかもしれません。それはかまわないのです」
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』12頁)
以前は、ピンピンコロリに憧れていたのですが、これを読んで、「死ぬ時は苦しくてよかったんだ」と目から鱗が落ちました。
俊隆老師は、癒し系のお話しですが、同じことを飯田欓隠老師は、体育会系的におっしゃいます。
「病の時は病ばかり、只管病苦じゃ。病者衆生の良薬なりと仏も云うた。病によりて永久の生命が得らるるからじゃ。(略)死の時は死ぬるばかりよ。死也全機現(しやぜんきげん)じゃ。只管死苦じゃ。この期に及んで安心を求むるとは何事ぞ。只死苦ばかりの所に大安心の分がある。全機現とは宇宙一枚の死じゃ。死者の世界じゃ。死によりて宇宙を占領するともいえる。元古仏は生死は仏の御命なりともいわれた。死を厭うは仏を殺すなりともある。」
(飯田欓隠『通俗禅学読本』24~25頁)
秋月龍珉老師は、禅の研究者でもありますから、色々てんこ盛りです。
「明治から昭和にかけて約半世紀近く建長寺派の管長をつとめた菅原時保(じほう)老師は『日面仏,月面仏,訳すれば,”ああ死にともない,死にともない”』と提唱されている。(略)
近代の傑物であった飯田欓隠老師は,痔の手術をして,『痛い痛い。何にも無いというのは嘘の皮だ』と,わめかれたという。鈴木大拙先生に筆者が最後にお目にかかったのは,発病前日の午後から夕方にかけてであった。その翌朝から激しい腹痛を訴えられ,『痛い,痛い。この痛いのはかなわん』と叫びつつ,次の日の朝早くあっけなく世を去られた。死因は絞扼性腸閉塞という,まるで腹の中の交通事故のような病気だった。
山岡鉄舟も胃癌で苦しんで死んだ。辞世の句は,『腹張って苦しきなかに暁け烏』というのであった。弟子たちは,鉄舟先生ほどのかたの句として恥ずかしいと考えて内証にしていたのを,おくれて京都から来られた師の滴水和尚が見て,『さすがは鉄舟さんだ』と言って,改めて発表させられたという。
(秋月龍珉『日常の禅語』115~116頁)
同じ臨済宗でも朝比奈宗源老師は癒し系です。
「若い人がたくさんな希望をいだきながら不治の病で逝く時など、死にたくない、今死ぬのはくやしいと、耐えがたい憤懣にかられることもありましょうが、それもいたしかたない、病という生命をむしばむ条件が発生して、これを解消させる条件がない場合、それもまた必然の理です。口惜しい、畜生!とさけびたければさけんでもよい。それも生命への愛の自然です。」
(朝比奈宗源『佛心』53頁)
この後に出てくる次の言葉もよいですね。
「あれも気になる、これも苦になるという方があるかも知れませんが、気になったら気にしなさい、苦になったら苦にしなさい。どんな苦しみもやがて佛心の海にとけこんでしまうものなのです。心配はいりません。」
(朝比奈宗源『佛心』57頁)
禅の語録で分かりやすいのはこちら。
「趙州の語録に左の問答がある。一人の婆子が問うた、婆は是れ五障の身で地獄は決定と思いますが、どうしてこれを免れ得ましょうかと。それで趙州の答に曰はく、『願わくば一切の人は悉く天に生まれてくれ。願わくば婆々だけは永く苦海に沈むであろう』と。ここまで来なければ、自由な無碍なあばれ方も出来ぬ。」
(鈴木大拙『百醜千拙』153頁)
「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」
(『歎異抄』第二条)
「地獄でよし」となれば、朝比奈宗源老師が
「私のように禅をおさめたものから見ますと、浄土系の教えは、(略)これ以上たくみな親切な教えはなく、しかも真実なのであります」
(朝比奈宗源『佛心』2頁)
とおっしゃることも納得がいくところです。
このことは、キリスト者でも同じであったりします。
「間もなく、神の所へ往かなくてはならぬ。(略)
神はわれを如何やうに片付け給ふか、そはわが知る所でない。
われは何時も仕合である。
世界を挙げて苦んで居るが、このわれは、この最もつらき訓練を受けねばならぬ吾は、不断の喜びを覚える、大なる喜びを覚える、どうしても抑へきれぬほどに覚える。
(ブラザー・ローレンス。鈴木大拙『百醜千拙』186~187頁)
*ブラザー・ローレンス(本名ニコラ・ヘルマン)、17世紀のフランスの修道士
「われを如何やうに片付け給ふか、そはわが知る所でない」とは、歎異抄の「地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず」と同じですね。
キリスト者では、渡辺和子先生のこのお話しも素敵です。
「数年前、私は『ひとのいのちも、ものも、両手でいただきなさい』という言葉に出合いました。そしてこれは、私にていねいに生きる一つのヒントになりました。
誰が考えてもよいもの、ありがたいもの、例えば賞状、卒業証書、花束などを両手でいただくのには、何の抵抗もないでしょう。しかし、自分がほしくないものだと、そうはいきません。拒否したい、突き返したいようなものが差し出された時、果して、それらを受けとめるだけでなく、両手でいただく心になれるだろうか、と私は、自分に問いかけ続けています。(略)
何事もリハーサルしておくと、本番で落ちついていられるように、大きな死のリハーサルとして、“小さな死”を、生きている間にしておくことができます。
“小さな死”とは、自分のわがままを抑えて、他人の喜びとなる生き方をすること、面倒なことを面倒くさがらず笑顔で行うこと、仕返しや口答えを我慢することなど、自己中心的な自分との絶え間ない戦いにおいて実現できるものなのです。」
(渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』153~154頁)
渡辺先生がおっしゃることを禅に立ち返って改めて語るとこんな感じでしょうか。
「94歳の玄峰老師が沼津でお話になったテープを聴きました。終わりの方で老師はこういうことを言っていました。『自分は若い頃ねずみ小僧になりたいと思ったことがある。ねずみ小僧のようになって人様のためにやりたいと思ったこともあった。しかし、もしねずみ小僧になっていれば、今頃捕まって死んでいたであろう。若い頃に目の病気になったおかげでこうして今日、長生きさせてもらって、みんなのお目にかからせていただいている。こんなありがたいことはない。あの病気になってなかったならば今頃は死んでいた。これもご縁だ』。
われわれ『ご縁』とか、『おかげ』とかと言うと、自分の都合の良いことだけを考えがちなんでございますが、玄峰老師も青年時代は、これ以上ない絶望があった。それを『おかげさま』と受け止めることができた時に、本当に根性玉というものが光るのでありましょう。」
(横田南嶺「磨いただけの光あり 山本玄峰老師の教えに学ぶ」『日刊熊野新聞』2016年1月1日)
鈴木大拙先生は、受け入れるとか、受けとめるといった「受動性」が宗教の本質であるとおっしゃいます。
「私の無心というのは、(略)例えばキリスト教的に言うと『御心のままに』というようなことなのです。神の御心のままにならせ給えという、そう『まかせ』主義のところのあるのを宗教的と云います。そういうところに宗教があると私はみたい。それから前にも申しましたように、受動性というものがある。絶対的に受動の形をとって出る。自力を全く棄てて、そうして他力三昧になる。自分の意志というものをもたないで、神というものをいろいろに解するのだが、とにかく絶対の他者、他のもの、自分ならざるもの、絶対に自分の向こうに立っていて、自分を全く包んでいるもの、絶対の他力と云ってもいい、そのものに任せきること、これを宗教というのです。」
(鈴木大拙『無心ということ』40~41頁)
「受動」だけですと、消極になってしまいますが、積極の意味ですと、世縁随順ということでしょう。
何か危機的状況に直面したとき、こうなすべきだけれどもできない、ということはありがちです。
傷つきたくないという自分自身の利己心が邪魔をして、こうしたいということができないということがあります。
そこを「この場ではこうなすべきものである」と任せ切る。
そうすると積極の働きが出てくるということになろうかと思います。
「陰徳の概念の真理は、禅の訓練としてその紛れなき特長であるのである。(略)それは報酬や我慢の考えを捨てて善を善のために行うことを意味する。小児が水に溺れている。私が水中に飛び込む。そして小児が救われる。ただそれだけのことである。なさねばならぬことがなされたのだ。私は歩み去る。そして後を振り向かない。(略)禅はこれを『報酬なき行為』(無功用または無功徳)と呼ぶ。」
(鈴木大拙『禅学入門』196~197頁)
「苦」を受け入れるということを消極の忍従と受けとってしまうと却っておかしくなるようなところがあります。
どちらかというと、ゴンブリッチ先生のように「だからといって、思い煩うことがあるだろうか」と、苦を支障になるものとしないことが大切なように思います。
そこに積極の働きが出てくるように思います。
このブログでも繰り返し取り上げていますが、受け入れながらの積極性というのであれば、やはり一番好きなのはコレです。
「迷いが怖ろしいから、悟りの中へ逃げ込むというのではありませぬ。迷いの中へ飛び込んで、大自在を得るというので、世間を捨てて山の中へ逃げ込むというのではありませぬ。紅塵萬丈の中にいて、快活に仕事をして往くのであります。(略)啻(ただ)人間の中ばかりではなく、地獄界へでも、畜生道へでも、ドシドシ這入って往って仕事をする。言い換えれば到る処に主人公と為って働くのであります。」
(釈宗演「無門関講話」『釈宗演全集第五巻』39頁)
次のも日常性と活動性が感じられてよい言葉です。
「大に有事にして過ごす処の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。」
(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)
「有事」そのままが「無事」という有難い言葉です。
同じ流れですと、次もよく取り上げますが、上田閑照先生の切れ味鋭い言葉。
「平常心において多難に心労する」
(上田閑照『禅仏教』55頁)
実際、苦しくないと人生はつまらないものです。
「苦しみも感ぜず、悩みもしないで、いつまでも、寝たり起きたりしていると、人生は実に夢のようなものである。」
(鈴木大拙『無心ということ』38頁
鈴木大拙先生ならばこちらも捨て難い。
「人生は、希望、苦しみ、夢、悲しみなどで出来ているものだ。そこから逃げるのではなく、永遠に続く『情熱と苦しみと希望の渦』の中に生きよう。」
(鈴木大拙書簡の孫引き。ステファン・グレイス「鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究』(2018年2月)107頁)
いろいろ挙げましたが、私の一番のお気に入りは、こちら。
「われわれがこの苦の世界に生まれ生きているのは、愛するためであり、働くためであって、苦から逃れるためではない。」
(松本史朗『仏教への道』146頁)
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