坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

参考資料:禅の目的=衆生済度

(1)釈宗演『最後の一喝』
60頁 曹洞宗の開祖道元禅師の歌に
 愚かなるわれは佛にならずとも
 衆生度する僧の身なれば
とある通り、利他の本願は仏教徒の等しく目的とする所であり、又実に尊い所以である。
もしそれ諸仏頂上の禅に至りては、小我は大我に没し、大我は小我に没入して自利利他の区別など全くなくなって、三界は我有也と佛の仰せられた如く、この世に生きとし生けるものは、皆我子の如く愛する慈悲をいうのである。(略)これが禅の極致で(61頁)悟道の妙所である。
61頁 迷と悟とは別のものではない。迷えるものには七情となり、悟れるものにはそれは大智とも光明ともなる。これをたとえてみれば渋柿を湯につけて置くと甘くなる【62頁】のは、渋があるからこそ甘くなるのであって、渋いからとて捨てる訳のものではない。歌に
渋柿の渋みの外に甘乾の
甘味の種は外なかりけり
とある通り、悟れる者には従来厭うべき七情も、遂には愛すべきものとなるのである。(略)
故に真に禅によって悟入したものは、決して死灰のようなものではなく、血あり涙あって人類に臨むようになるのである。世には遠く俗塵を避けて山に入り、独り自ら高こうするものがあるが、それらは禅の本旨を得たものとはいわれない。禅はどこまでも血あり涙あって、俗世間のものを救うという(63頁)大慈悲心のあるものでなければならぬ。世間と離れし禅を求めんとするは大なる相違である。

(2)釈宗活『臨済録講話』
226頁 元来宗教家なるものは、利他即ち衆生済度が、天職専門である以上は、市街と村落とを問わず、浮世の街(ちまた)、黄塵万丈、五欲煩悩の世間、人類中に雑居して、布教伝法すべきもの

(3)飯田欓隠『通俗禅学読本』
2頁 水に溺るる者は救上げねばならぬ。火に焼かるる者は救出さねばならぬ。禅は畢竟大きな救である。(略)元来、万物と我と一体である。天地と我と同根のものである。皆一つのものの分れである。分れながら一つのものであるから、どうしても救わねばならぬ未生以前からの約束である。故に救の心なき者は、人の人たる道を知らざる者にして人に非ずというてもよい。(略)我等はもと仏とちっとも違わぬ凡てを救うに足るべき本能力を持っておる。(略・3頁)法華に、若有聞法者無一不成仏とある。成仏せざるはなしと読めば、本来人(ほんらいにん)ということになる。成仏せざるはなしと読めば、後天性になる。仏になるのではない。本来仏であるので、知らぬ者が知らぬまでじゃ。
 聞かねばならぬ、聞かさねばならぬ。それじゃからやればだれでもやれるわけじゃ。自暴自棄の起こせぬ処じゃ。然り然らば、我れ之より、人を救い世を救わんと誓う、誰か怪しむものあらんや。むしろ人の本分なりといわねばならぬ。人は救なりというてもよい。仁は人の本宅なりともある。この救わずばやまじと誓う心を仏は菩提心と名づけられたのである。

(4)鈴木大拙『百醜千拙』
88頁 大乗教の小乗教に異なる諸々の重要点中特に注意すべきは、大乗教が「衆生無辺誓願度」を説くにあると予は信ずる。玄妙深遠なる教理はともあれ、大乗経にこの一句があるがため、これをして宗教中の宗教とならしむるのである。如何なる宗教でもこの一句子がなくてはその真面目を発揮することが不可能である。小乗には「煩悩無盡誓願断」はある。しかし「衆生無辺誓願度」はない。(略)たとい因果応報があっても、たとい苦集滅道の理は疑うべからずとしても、これだけでは仏教は死物である。
(略・89頁)因果応報の身は身として、別に無辺の本願力に由りて衆生済度をやらねばならぬ。維摩衆生病む故に我病むといい、法華経は三界は吾有なり、衆生は吾子なりと説く、這般の愛がなくては、大乗経は成立たぬ。
93頁 白隠和尚が自ら闡提窟と称せられたのは実に捨一切善根的の一闡提というのではなくして、一切衆生のため般涅槃せざるところの菩薩をねがうとのことであった。いずれの宗にありても大乗教というべきは皆この如き本願を本として建立せられたのである。大乗を学んでこの真実義に徹底せぬ人は文字通りの一闡提といわねばならぬ。
 四弘誓願は、「衆生無辺誓願度」で始まり、それから「煩悩無盡誓願断」へ移(94頁)って行く。これは何でも道理に当らぬ順序のように思われるかも知らんが、大乗教の極秘に通じた眼から見れば、実にこうなくてはならんのである。煩悩を断ぜんというも、法門を学ばんというも、悉く衆生を済度せんとの本願から出るのである。(略)
 真宗ではこの本願を弥陀の上に投影せしめているけれども、禅宗ではこれを各自の上に働き出さしめんと勉める。隻手の声をきくのも、本来の面目を見るのも無字を悟るのも、畢竟するに知的方面の話ではなくて、実にこの本願の真実相に徹底せんためである。(略)
 この本願力の発動を感得しなければ、千七百則の公案も皆虚言にすぎぬ。
 あるいはいう、いくら「衆生無辺誓願度」でも自救不了では仕方があるまい、さ(95頁)れば何よりまず煩悩を断じ法門を学ぶべきであろうと。これは一寸もっとものように聞こゆるけれども、そうではない。ただ自ら満足するために断煩悩するのは小乗である、ただこの世を苦と感じて涅槃の無余に入らんというは菩薩ではない。菩薩修行の大動機は一切の衆生をして悉く般涅槃せしめんとの本願から出ている。この本願が先ず働くから自ら無盡の煩悩障と所知障を伏断しようと思うようになる。これを宗教心の発動というののである。宗教的自覚は厭世から出るのではない、有限界の拘束を離れようとする所ではない。(略)大乗仏教との自覚は(略)本願力の自主覚醒でなくてはいけぬ。この覚醒の伴わぬ修行は魔の修行である。禅者が往々にして破戒無慚の徒となってしまったり、知解的公案解釈者と転じ去りたりするのも、最初の動機において一歩を踏み外したからである。