坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

当処即蓮華国

「大に有事にして過ごす処の人間,今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で,何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで,あくせくと働いて其上が,しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。」
(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)



 年初に道友らと顔をあわせた際,この宗活老師の著書の言葉を,「当処即蓮華国」とのタイトルで紹介したのだけれど,「難しい」と言われてしまった。
 難しいのかなあ,端的だと思うのだけれども。
 
 そう思っていたところで,たまたま積ん読していた上田閑照『禅仏教』に目を通していたところ,よい言葉が見つかりました。



 「『疑団』が解けるのは,問に対して答が与えられるという仕方ではなく,疑団そのものが瓦解氷消するという仕方である。『直に得たり,瓦解氷消することを』。それは問そのものがなくなることである。(略)『平常無事』といわれる。(略)恐るべき問も問題でなくなるこの『平常心(びょうじょうしん)』こそ同時に,単なる日常の内に真の不可思議を見得るのである。不思議といえば『薔薇が咲いている』というなんでもないそのことこそが不可思議なのである。『疑団』が解けた時,ある僧は『也太奇(やたいき),也太奇』(不可思議)と叫んだ。そしてまた,『一』から問いという性格が脱落すると同時に,『一』にも停まらず,無限の『多』に多としてそれぞれに応接してゆき得るのである。散乱せしめられることなく『無事』の内に多事に処し,平常心において多難に心労するというあり方である。」

上田閑照『禅仏教』54~55頁)

 「平常心において多難に心労する」
 
 ……いいですね。こうありたい。とういうか,よくよく考えると,誰しもすでにこうあるのですから,面白い。



 当処即蓮華国,衆生本来仏也。



 単に気づいていないだけです。

 そして,気づく必要もない。

 次の鈴木大拙の著書の一節も同じ文脈で大好きです。


「浄土でぽかんとしていては,手持ち無沙汰でしようがないに決まっておる。還送廻向とかいうことはいやでもしたくなるであろう。して見るとこのままの穢土でよのでなかろうか。痛い事も,つらい事も,苦い事,悲しい事,惨めな事もあるので,面白いというてはいかぬか知れぬが,まあそれも可もなく不可もなしか。(略)
 悪いことがある,悲しい事がある,そのままを肯定して,忍受するのでない。悪い事を善くする,悲しい事は嬉しくする,その後から又悪い事,厭な事が簇がり起る,起れば又これを善い方へ転ずる,転ぜんと努める。これを穢土というてもよし,浄土というてもよし,とに角,こんな塩梅でせつせつとくらす。而して離有なみだを流す,死んでからは,他力でどこかへ行く,又行かなくてもよい。」

鈴木大拙『百醜千拙』165頁)

 
 
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