坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【資料】碧巌録第五則『雪峰大地撮来』

【本則】
 挙す。雪峰衆に示して云く、尽大地撮し来るに粟米粒の大きさの如し。面前に抛向(ほうこう)し、漆桶不会(しっつうふえ)。鼓(こ)を打って普請(ふしん)して看よ。

【和訳】
 一日雪峰和尚大衆に示して、尽大地といえば、如何にも大きいようであるけれども、撮(つま)んで見れば米粒位しかないぞ。
 之が見えないかと言うて、其面前に抛り出された。
 漆桶(しっつう)は漆桶(うるしおけ)のことで、真黒々(まっくろぐろ)ということで、不会は合点の行かぬことで、即ち漆桶不会少しも分らぬ。
 是れ此通りえであるぞと眼の前に投げ出されても、凡情が之れを隔てて、少しも分らぬ。
 これが分らなければ、皆一緒に、鐘や太鼓で探して看よ。

 以上は、宗演68~69頁に出てくる訳です。
 時保老師は、冒頭部について、「宇宙そのものは、実に広大無辺のものである、その広大無辺なる宇宙の全体を、拙僧が三本の指で、つまみあげると、之是、此通り米粒ほどの大きさしかない。」(時保55頁)と更にかみ砕いて訳されています。

【用語】
 雪峰和尚=雪峰義存
 *六祖慧能―青原行思―石頭希遷―天皇道悟―龍譚崇信―徳山宣鑑―雪峰義存(咄堂144頁)
 普請=「普く人を請ずる」の意味。「一山の大衆に出会って貰うこと」、禅院においては、「作務」のこと(咄堂134頁)

【解釈】
 この則の理解の仕方については、二元論的な見方を離れる主旨のものとされています。
 個人的には、時保老師の説明の仕方が好きです。
 まず、「其天地は那辺にある。曰く、其天地は、それそこに、其宇宙は、これここに。」(時保33頁)「尽大地」の遍在性について述べられます。
 その上で、尽大地が米粒ほどのものしかすぎないと雪峰禅師の述べることについては、「云う勿れ雪峰禅師の神通妙用と。――決して神通でも妙用でもない、当然であり、尋常である。(略)知るべし、大に大なく、小に小なく、極小は極大に同じ、極大は極小に同じ、と云うことを。」(菅原55~56頁)と、二元的な見方を離れることについては、決してスピリチュアルなものではないと強調されます。宗演老師の「尽大地直ちに粟米粒となる」(宗演70頁)と端的なおっしゃり方もすっきりとしています。

 問題は、「恁麼は何ものぞ、尽大地か――粟米粒か」というところです(時保58頁)。
「粟米粒そのままが尽大地、尽大地そのままが粟米粒」という「同時、斉唱、不二、並行が我がお手のものにならなければ、禅の話は出来ません。」(時保58頁)。
 
(参考文献)
 宗演 釈宗演「講述碧巌録 前篇」『釈宗演全集第三巻』
 時保 菅原時保『碧巌録講演 其四』 
 咄堂 加藤咄堂『碧巌録大講座 第二巻』


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