坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

一切皆苦の理由

荒野に立っている。

何かよいものがないかと、素手で周りの土を掘り返すが何も出てこない。
 
掘っても、掘っても、探しても、探しても何も出てこない。

疲れて、爪に挟まった土を見る。

また、何かよいものがないかと土を掘り返す。

やはり、何も出てこない。

得ようとして、得られるものは何もなく、自分がこの荒野に立つ意味は何かを問う。



まるで価値がない。

とはいえ、死ぬ勇気もない。

何か得られないか掘り続けるのも空しい。

だから、何もせずに、じっとし続ける。



荒野の中でいつも何か得たいと探し回るような考えだけでいると、そのうち、生きているか、死んでいるかもわからないような生き方が正しい生き方だと思い込むようになる。



発想を変える。



与えられる前に、まず、与えてしまう。



荒野から何かを得ようとするのではなく、こちらから荒野に与える。

荒野に種を撒き、水を与える。

得ようとするのではない。

与える。

すると、荒野に花が咲き乱れ、世界はこんなにも美しく豊かであったのかと気づく。

 

くすんだ一切皆苦の世界に見えるのは、世界に与えていないからである。

いつも物欲しそうに世界から何かを得ようとしているからである。

世界は自分と別にあるのではない。

世界は自分とつながっている自分の庭なのだ。

自らが世界の主人として、世界を愛し、きちんと手を入れなくては、いつまでも荒れ果てたままであることは当然だ。

私達は、世界という庭を愛し、どのようにすれば美しい花園となるか創造力を働かせ、世界という庭の養生をしなければならない。

(注意しなければならないのは、私達が自然と成長するということである。したがって、私達とつながりあっている世界も自然と成長するものであり、往々にして、変に手を入れるのではなく、暖かく見守る方が何よりの養生となることが多いことである。「毒親」と言われる例を想起する。家族、とりわけ、里子を含めて子供を持つことは、世界を養生する何よりの訓練であり、世界を養生することそのものであり、それ自体喜びである)



自分が世界の主人であるとは、横暴な専制君主となることではない。

世界の庭師として、世界を愛し、可能な限りの創造力と労力を払って、世界を美しく養い、育てることなのだ。



利己主義者は、手元にない未来の幸福の獲得と、その裏返しである将来の不幸の回避しか見ていない。

幸福を目指すということは、現在は、その幸福を手にしていないという観念を前提とする。

不幸を回避するということは、現在は、どんなに幸福な状態であっても、その幸福が失なわれる可能性があるという観念を前提とする。

したがって、幸福の獲得と不幸の回避を目指す人の精神世界は、幸福を手にしていないという不満と、不幸に見回れるかもしれないという不安とが継続するだけだから、人生は、いつも暗い。

だから、利己主義者の人生は、どんな努力をしても暗いままであり、世界は、そのまま苦界なのである。



一切皆苦などという言葉に共感する人は、そもそもが利己主義者、とりわけ酷い利己主義者なのである。




得ようとするのではなく、与える。

与えられる前に、まず、与えてしまう。



世界に養われるのではない。
 
自分の側から世界を養い、育ててやるのだ。

主体的に養生し、手を入れれば、世界という荒野は、豊かな花々で満たされる。

 

与えれば確実に変わる。

 

これは、冷暖自知するしかない。




ーー利己主義者は、悪い人ではない。

幸福の獲得と不幸の回避を目指しながら、際限のない不幸に苦しみ続ける、とりわけ不幸な人なのだ。

だから、私達は、不幸な人たちを救うために、幸福を目指すことによる不幸の連鎖から抜け出す道を示さなくてはならない。

(20200212大幅に加筆)





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在家修行の問題性

1 仏道修行は利己主義を懐疑する

「人生というものは元来我儘なものです。つまり人間の行動は全て利己主義的なものです。つまり人間の行動の全ては利己主義的なものです。人間はそれぞれ自分の理想を持っていますが、その理想の正体も結局のところ自己満足の追求であるし、自分の意志意欲の線に適う時に、人間は納得がいくというものです。人間は自分の意向にかなったもの、自分の好きなものは、非常に大切にし、或いは共鳴したりする。ところが自分の意向にかなわないものに対しては敵意を持ったり、または排斥したりする。そればかりでは収まらないで、利害関係が反したりしていると、その果ては殺意までおこすようになるのが人間なのです。このもとはというと、意志意欲というものが、人間生活をさせているからです。
(略)
 意欲を発端として思考を始め、それから理想が生じて人間的生活努力が始まり、かくて人間は思想を持つようになったのである。(略)かくて思想というものを深く反省して来ると、思想の次元に止まっていては、真実はあり得ないということが明確になる筈である。何故ならば、思想にはその本来の発生の経路からしても、必ず偏向があるのは当然である。故にこれを越えなければ真実への道は開けない。そしてそこに出家道として仏道が展開するのである。」

(酒井得元『永平広録について』6~7頁)



 仏道修行は、利己主義を懐疑します。

 人生の困難の要因には、利己主義があると見て取ります。



 心理学的に述べると、極普通、人間は、利益を得て、不利益を避けようとする人生を送ろうとします。

 私たちの脳は、常に、外界から感受した情報を、利益を得て、不利益を避ける目的で解析し、肉体に行動を指示します。



「快楽に向かうこと、そして不安を遠ざけること。このふたつの巨大な動機づけこそが、長い進化の過程を通じて人間の脳内にさまざな回路を発達させ、それらの集積が、恐怖と快楽をそれぞれつかさどる回路を形成した。恐怖の回路はたえず危険に目を光らせ、予測不能な世界の中で身の安全を守る役目を果たす。
(略)
人の心は、自分に関心がある部分を拾い上げるために、それほど関心がないその他たくさんの細かな情報を苦もなく無視している。そうしたバイアスを通じて人はみな、自分にとっていちばん重要な事柄に自然に目を向けているのだ。
(略)
わたしたち人間はこうしたバイアスをまったく自覚していないようだ。日々の生活を送るなかで、身のまわりで起こるものごとを、脳は旋回するレーダーのように絶えず分析かつ調査し、自分にいちばん関心のあるものごとを決して見逃さないようにしている。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』50~52頁)



 このような脳の機能は、私たちの生存を確保し、人生の中で価値ある活動をしていく上では、極めて大切なものです。

 しかし、この脳の機能を放置する、利益を得、不利益を避けようとする利己主義的な機能が過剰になると、人は、不幸になります。

 すなわち、利益を得ようとするという思考は、現在、その利益がない観念を前提とし、不利益を避けようとするという思考は、現在、利益のある状態、問題がない状態であったとしても、将来的にそれが失われるという観念を前提とします。

 そして、将来において利益を得て、不利益を避けようとする思考を続ける限り、私たちは、現在においては、何時まで経っても、利益はなく、手に入れた利益もすぐに失われるという不満を抱き続けることになります。

 利己主義者の世界は、正しく一切皆苦なのです。

 そこで、利己主義に対抗する方策を講じる方法の工夫が必要になるのです。

2 利他行の重要性

 私たちは、常に利己主義により行動を動機づけられており、利己主義による不利益を避けようというのも利己主義の現れですから、これは困難な課題のように思われます。

 その困難を避ける方策が、「利他行」です。

 他者に利益を手放し、他者の不利益を背負い込む。

 そのような利他の行為それ自体の中に価値を見いだす生き方をしていくという対処法です

 利他に喜びを見いだすというのは、人間のごく自然な感覚です。

 典型例が、小動物にエサをやるという行為です。

 誰しもが、小さいころに、池や川にいる鯉やアヒル、寺社の境内や公園などにいるハトにパンくずを投げてやり、争って食べる様子を見て楽しむなどした経験があると思います。

 鯉、アヒル、ハトなどにエサをやっても何も返ってくるものはありません。
 
 しかし、ただエサをやって食欲を満たさせてやる行為のみに満足する。

 ありがたいことに、人間には、このような利他行為に満足感を得る機能が確実に備わっています。



「諸所で『一燈園生活の要領を言え』とのお尋ねに接しますが、これは比喩を以てお答えする外はないと存ぜられます。私は次のような例を引いてお答えしております。
『重荷を負うた人の為めに其の荷を分けて担うて上げた時の端的な実感と、過去もなく未来もなく刹那々々を全人的に生き切った気持!』」

西田天香『托鉢行願』7頁)



 将来において、利益を得、不利益を避けるのではなく、その行為を「ただすること」に自足する。
 
利他行為は、それを可能にするものです。

 「利他行為をやりたい」、それも利己主義ではないか、との疑問も出るでしょう。

 確かにそのとおりです。

 私たちは、「やりたい」という意志がなければ、この肉体を動かすことはできません。

 しかし、利己主義の問題点は、行為による満足、すなわち、結果を未来に設定してしまうことにあります。

 けれども、行為の時点で、即時的に結果が生じるものであれば、利己主義の問題は生じません。

 先の引用文の中で西田師が、「荷を分けて担うて上げた時の端的な実感」とは、行為に自足することを意味します。

 また、余りに言われることはなく、今のところは、私の個人的見解といわざるを得ませんが、道元禅師が、「修証一如」と仰るのも同義と思います。

 修行と悟りとが同一であるというのは、何やらスピリチュアルな感じもします。

 しかし、修行によって、将来、「悟る」という思考様式では、仏道修行自体が、将来における利益を獲得しようとするものになってしまい、利己主義の不満を招来する結果になり、本末転倒となります。

 曹洞宗の方が、見性を目指す臨済宗の方に対し、強い批判を向ける理由もそこにあります。

 仏道修行という以上、私たちは、常に修行それ自体に自足することを工夫しなくてはならず、それを称して、向上とも言うのです。

 

「私は若い時に徹底的に坐禅修行をしようと思っていましたので、臨済の道場へ行っておりました。あそこでは全員が、なんとかして見性しようという一つの雰囲気に、ひたりこんでしまっていました。そして見性するためには、自分の身体なんかはどうなってもいいというような熱気に燃えていました。つまり見性のためには手段を選ばぬといった調子でした。後から考えてみますと、これは別に考えなくともわかることですが、本人は真剣な求道人としてどうしても自分は悟りたい、そのためには自分はどうなってもよいと、本当にそのように思ってしまうものです。然し、結局は、それはただ自分のものが欲しいということだったのです。つまり満足感の追求ということだったのです。それでどうしても安心決定したいというのでした。安心決定が欲しいというのは、実は自己満足の追求に外なりません。」

(酒井得元『永平広録について』7~8頁)
 


 利他行を行ずるにあたって重要なことは、あくまでも、その行為に自足することであって、対価を求めないということです。

 よくボランティア活動等の場面で、ボランティアをした相手の方の笑顔が好きでやっていますなどといった発言がされます。

 あくまで、自分の実感の表現の問題であり、やっていらっしゃる方の実際の肚は、先の西田師と同じものであることがほとんどで、その喜びを、西田師のように巧みに表現できないことから、上記のような表現になってしまうものと思いますが、「相手の方の笑顔」などといった対価を本気で求めると、利他行は、単純利己主義の行となります。

 なぜなら、行為と「相手の笑顔」などといったものとの間には、タイムラグがあるだけではなく、やった行為によって相手が喜ぶか否かというのは、相手の方の自由意志で判断されることなのですから、行為の時点では確定しておらず、結局、現在にはない将来に利益を得る思考様式によってなされるものとなってしまい、利他行としての価値がなくなるからです。
 
 とはいえ、実際に、相手の方の姿が見えていれば、どうしても、求めてしまう気持ちが生じてしまうものでもあり、そこに、人のわからない所でよいことをするという「陰徳」が禅門において貴ばれる由縁になります。


 
「陰徳即ち報酬の為めにせざる善き行いは、大乗教の教義に合ったもので、我が禅宗でも、大に之れを奨励して居る。而かも、近来、清廉の風、地を払って、報酬なき善き行いをする者が少ない。譬えば、彼の労働も自己の務めとして忠実に之れに従事する時は、労働は神聖なりとも云えよう、さり乍ら、其の労働の対価として、即ち、労働の結果として、報酬を受くるにあらずして、単に報酬を得んが為めにする労働は、神聖でも何んでも無い。(略)富は必ずしも其身其家を幸福にするものでは無い。由て、人は、陰徳を冥々裡に施し、独自一個の故にあらずして、社会的に存(たから)うるに越したことは無いのである。」

(釈宗演『快人快馬』123~124頁)


 
 このように、利他行は、利己主義に基礎がありながら、利己主義の問題点を解消する点で、大乗仏教の行である六波羅蜜の中でも第一にくるものとされ、(中国)禅の基礎でもある華厳経においても、重視されています。



六度、すなわち布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知慧の六波羅蜜を修行することは大乗仏教の菩薩の修行とまったく同じであり、この六度によってみずから悟りの境地を目指すと童子に、他の人びとをも救おうとするのである。(略)
 六度のなかでとくに重要なのが布施ということである」

(鎌田茂雄『華厳の思想』151頁)

3 出家の問題点

 利他行が重要であるということになってくると、出家には、問題点が出て来ます。

 出家して、寺院、禅堂にこもって仏道修行に明け暮れるということになれば、そのような狭い世界で誰に利他行をするのか、という問題点が出て来ます。

 利他行を広く行うためには、寺院、禅堂から出て、社会の中で積極的に活動しなければならないのです。

 中国で禅が最高潮を迎えた宋代において、優れた修行者が叢林に残らず、政治の世界に入ったり、禅修行にはまり込みすぎてもいけないなどと言われる理由はそこにあります。




禅宗がいかに能動的な思想であり、社会の中でそれを生きることを求めるものであったとしても、仏教である限り、「出家」という在り方を否定することはできなかった。ところが朱子学は、禅のもつ優れた点を充分に取り込むとともに、「儒教」であることによって、政治への参加を積極的に自らに課すことができたのである。科挙官僚となることを最高の目的とする士大夫階級の人々にとって、朱子学が魅力的なものに映ったのは当然であろう。
(略)
南宋時代には官僚の子弟や科挙の落第生が叢林に入って出世を召さすなどといったことも珍しくなかったようであり、叢林は士大夫階級の外にあるのではなく、まさしくその一環を形成するものとなっていた。そのため、士大夫との交流はますます盛んとなり、詩文や書、絵画などの素養は禅僧にとって不可欠のものと見做されるようになっていったのである。(この頃には禅僧が在家の葬祭にも関与するようになっていたようであるが、その原因もここに求めることができる)。」

(伊吹敦『禅の歴史』126~127頁)

「多くの人が好奇心から坐禅を始めますが、それでは自分自身を忙しくしてしまいます。修行によって、より悪い状態になるなど、ばかげています。(略)あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校をやめてしまし、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。
 落ち着いて、日常の修行を行っていれば、自分の人格は強いものになっていきます。心がいつも気ぜわしいと、人格をつくる余裕がなく、うまくいきません。
(略)
夢中にならない、という私たちの修行は、非常に否定的に見えるかもしれません。しかし、そうではありません。自分自身に対して働きかけるには、これがいちばん賢く、効果的です。また平易なのです。(略)平成で、日常的な心で修行していれば、毎日の生活自身が悟りそのものだからです。」

(鈴木俊隆『禅マインド・ビギナーズ マインド』110~112頁)


 
 また、種々の仏教的な行がそれ自体目的ではなく、助道の跡にすぎないと言われることも同様でしょう。



「看経(かんきん)、礼仏、布施、作福などの事は、ただ助道の跡にすぎないので、道は必ずしも此処に在るのではない。深山窮谷に隠れて草衣木食するようなのは、幽人高尚の志の現われで道とは関係なしと言っても可い。余は林下に淪棄(りんき・注1)して世間に用のないような身ではあるが、しかし斯民(しみん)と共に聖天子のために賢相を得たいと云う楽欲(ぎょうよく)は、ひたすらに持っているのである。」

(「今北洪川禅師から山岡鉄舟への手紙」)



 重要なことは、利他行為をし続けること=慈悲を生きることなのです

 大乗仏教においては、在家性があるとされますが、それは、利他を重視することからすれば、当然の帰結をいえます。

4 在家の問題点

 以上のようなことからすれば、「在家主義で全く問題なし。」ということに落ち着きそうですし、私自身も、そう思っています。

 しかし、利他行為それ自体に自足するというのではなく、何か精神的な満足を得ようとする、そのために仏道を行をずるという発想になるとおかしくなってしまう人が少なくありません。

 利己主義という観点から見た場合に、出家者の方について、素直によいと思うことは、やはり、財産や人間関係等、誰もが握っておきたいものを素直に手放していることです。

 逆に、在家で仏道修行をしようという人は、人生はむなしいなどと思っていても、同時に、わずかばかりの財産や、家族等の人間関係はしっかりと握っていながら、更に精神的な満足も欲しいと考えているわけであり、仏道修行をしない人よりも、精神的な満足をも得ようとする点で、更に利己的であるといえます。
 
 利他行為それ自体に自足し、これを目指す上での精神を落ち着かせるツールとして、坐禅等の瞑想に取り組むというのでなければ、在家者が仏道修行をするということには、一般の人よりも根深い利己性があるという問題意識を持てるかどうかが重要なのであるかなとも思います。

 在家でマニアックに禅等の仏道修行をする人たちの中では、よく出家者との違いについて、禅堂や施設に籠って、坐禅等の瞑想をする時間が短いことが問題とされますが、坐禅等のプロパーの仏道修行の実践は、所詮は、助道の跡にすぎず、時間は大きな問題ではないように思います。

 根本的に重大なことは、その修行の開始の時に、利己主義から離れられているか否か、というところではないかと思います。 



「パオ・セヤドーをはじめとするビルマの人たちは非常に素直だから、「見なさい」と言っても問題が起きないんですよ。でも、西洋人やわれわれ日本人のような人たちは「見なさい」と言われると、「よし、俺は何が何でも見てやるぞ」という余計な構えを取ってしまう傾向があります。だから、日本人とか西洋人がみんなそのあたりでつまずいてしまいます。
(略)
特に西洋人たちに。というのは見事なぐらい西洋人が全員討ち死になんですよ。(略)やっぱり西洋人で、しかも比丘になるような人たちは強烈にシンキング・マインドが強いみたいです。そういう人たちが「ようし、このメソッドを忠実に実行すれば俺にもできるぞ!」とみんな思ってやっちゃうから、もう是認討ち死にです。本当に。討ち死にしなかったのは、三人ぐらいかな。
(略)
人間のこの我というものの強さ、そしてそれが瞑想の最大の障壁だということをまざまざと見せつけられた。」

(藤田一照、山下良道『アップデートする仏教』〔山下良道発言〕188~192頁)



 衆生本来佛也。

 元々私たちには問題はなく、素直に慈悲の衝動を発動すれば、利他行為をすることができる。

 そのちょっとしたことに気づくかどうかが人生を大きく変えるように思います。

 そうすると、坐禅等の瞑想などといったプロパーの仏道修行というものにどの程度の価値があるのか。

 仏道修行にはまり込むことによって、生き方としての仏道に反することになってしまわないか。



「わしは勉強はじめてから以後は、勉強に夢中になっていて、嫁をもらおうなどと考える暇はなかった。だから、わしの場合では、一生辛抱して独身を通してきたわけではない。ただまっすぐに向こう向いてゆくばかりで、きょうまで来てしまったのである。一生を通して、なにも辛抱したということはなかった。辛抱すれば疲れるだけで、人間的にも無駄なことである。
 辛抱するということには、なにか目的がある。そして、なにか目的にする下心の「つもり」があると、その行為が不純になる。」

(酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』155~156頁)
  


 今を犠牲にして、将来の解脱を目指して、瞑想に明け暮れることが本当に望ましい事なのか。

 自己の脚下、日常生活の中にあって、家族を養い、仕事に邁進し、地域社会に尽くす、平凡な生き方に帰ることこそが、生死解脱の早道のようにも思うのだけれども。



「瞑想センターに入るまえ、瞑想の内に平和を見いだすことを、彼らは望んでいました。ところが、道を求めつつ、以前とは違った社会をつくり、この社会が、大社会よりも、もっとむずかしいものであることに気づきます。それが、社会から疎外されたひとたちの集まりだからです。数年の後、瞑想センターにやってくるまえよりも、もっとひどい欲求不満を起します。(略)
 これはなぜかというと、瞑想とは何かを誤解しているからです。瞑想の目的を誤解しているからです。瞑想は皆のためにするのであて、瞑想する当人だけのためにするのではありません。(略)
瞑想は、私たちが社会にとどまる助けをする道です。これは、重要なことです。
 社会から疎外されて、社会に復帰することのできない人々がいます。注意しなければ、自分たちもそうなることを、私たちは知っています。(略)
 瞑想センターは、あなたがみずからに帰り、現実についてのいっそうはっきりした理解を得、理解し愛する力を強め、社会に復帰する準備をするところです。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』72~79頁)



 
 
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「輪廻」という「真理」?=上座仏教の神秘主義的性格

 坐禅を始めてから、落ちつけるようになると同時に、積極的に物事に対処できるようになるなど、日常が手堅くよくなってきたことから、坐禅を行とする禅や仏教について学んだり、実践する中で、上座仏教に興味を持ち、上座仏教の勉強会にも行くようになりました。

 上座仏教の実践をする人たちとかかわりあうようになってから、上座仏教の世界では、「輪廻説」というものが本当に重要な教義なのだとされているのだと感じるようになりました。

 1990年代にオウム真理教の信者が社会との軋轢を起すようになり、果ては毒ガステロをするまでに至ったことが社会問題となった時には、その信者の人たちの中に、宗教と相反するような科学を学んだ理系の人たちが少なからず入信していたことが困惑とともに話題となりましたが、上座仏教の実践をしている人たちとの勉強会に参加していると、メーカーの技術者の方や、SEをされている方などが、真顔で輪廻について語り、うっかり、それを否定する発言をした人(私なんかもそうですが)に対しては、「実際に、死を体験していないのだから、『輪廻をしない』ということも思い込みに過ぎないのではないか。」などと粘り強く説得するなどということもままあり、社会的に無害であるか否かの違いはあっても、やはり、オカルト的な要素がある「宗教」なのだなあと思っています。

 私が上座仏教に興味をもつようになった切っ掛けは、日本における上座仏教の指導者の中でも特に著名なアルボムッレ・スマナサーラ長老の著書を読んだことがきっかけでした。

 

「お釈迦さまは『理性ある人が仏教を理解する』とよくおっしゃいます。(略)宗教には信仰が必須条件です。まず信仰する、それから学ぶ、という順番です。
 しかし仏教では、信仰は邪魔です。障害です。まず学ぶ。批判してみる。比較してみる。考察してみる。そして納得する。納得してから、実行してみる。結果が出たら、教えられたとおりに幸福になったと、苦しみは乗り越えられたと、実感するのです。そうしてからやっと、ブッダの説かれた教えが真理であり、そのまま事実であると確信するのです。残炎ながら信仰に出番がありません。
 ですから、仏教には信仰ではなく、理性が欠かせないのです。」

アルボムッレ・スマナサーラ『これでもう苦しまない』45頁) 

 自分でも記憶があやふやになっているのですが、最初に読んだ本がこの本でした。

 それまでにいくつかの仏教関係の本やネットの情報を見て、スマナサーラ長老の名前だけは知っていて、たまたまネット通販で安く売っているのを見かけて買いました。

 「信仰ではなく、理性だ」

というところに特に惹かれました。
 
 引き続いていくつかスマナサーラ長老の本を買いました。



「お釈迦さまが説いたのは、「真理」です。真理は、誰が語っても、いつの時代でも変わらないものです。お釈迦さまは真理を提示して、「自分で調べなさい、研究しなさい」という態度で教えたんです。「私を信じなさい」とは、まったく言っていません。
(略)何でも読めるし、何を勉強しても批判されるわけじゃない。ただ自分が確かな気持ちを持っていればいいんです。
(略)まだ仏教が宗教かどうかはっきりしないんです。」

(アルポムッレ・スマナサーラ養老孟司『希望のしくみ』18頁〔スマナサーラ発言〕)


 
 やはり、信じるのではなく、「確かめる」ことを強調することに惹かれました。

 上座仏教の実践を始めた人たちも、「信じる」のではなく、「確かめる」ことが強調されるので、「宗教」とは違っていて「真理」を語ろうとするものだと考えてそこに魅力を感じたのではないかと思います。

 そう考えて、上座仏教に興味を持ち、上座仏教の勉強会に通うようになって、聞きかじりで上座仏教についても勉強するようになったのですが、ほどなく、上座仏教が輪廻説をとっていることがわかりました。

 その頃は、臨済宗の出家の老師の方の坐禅会にも参加するようになっていて、お彼岸の頃、丁度、オウム真理教の麻原彰光こと松本智津夫受刑者の死刑執行のなされた直後の頃の茶和会で、「断見は本来問題があるのですけれど、この際、申し上げておきますが、魂などはありません。死後の世界もありません。私は、死者のために読経をしたことはありません。」などというお話を聴いたことがありました。

 また、鈴木大拙先生の『無心ということ』の中で、歎異抄が取り上げられ、その第二条の中に「念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」があることを知り、浄土真宗が念仏して、死後、極楽往生を目指すというのは、スピリチュアルなものではなく、「地獄でよし」と現在の日常に安住を見出す発想のものであることを直観しました。

 そのような状況であったので、上座仏教が輪廻説を取っていることに強い違和感を抱きました。
 
 禅宗の寺院での説法などを聞かれた方には、上座仏教に対し、同様の違和感を抱く人が多いようです。
 
 最初は、歎異抄の肚と同じようなものかと思ったのですが、上座仏教の実践をしているほとんどの方は、その言動から、どうも肚の底から、輪廻という現象があるのを信じ込んでいるのだと分かりました。

 上座仏教における輪廻説の位置づけについては、次の文章がわかり易いかと思います。



ミャンマーには「国家サンガ大長老会(略)」というものがあります。その中で(略)二〇一一年に非法とされた教えがあります。(略)現在業論仏教(略)で、過去生、来世の輪廻を否定し、欲界、色界、無色界からなる三十一界説を否定して、現在の業のみを認めるものです。(略)
 現在業仏教はテーラワーダ仏教の伝統的な立場からは問題外です。過去生や来世を否定し、六道輪廻否定するなど、現代の日本の仏教学者に多くみられる意見と共通するものがありますが、特に深い瞑想体験や経典理解から出たとは思えない説です。」

(西澤卓美「厳格に伝えられるテーラワーダの伝統と瞑想の文化」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』50頁)



 考えてみれば、上座仏教では、一切皆苦が強調されるのですから、本当に、この世界に生きることについて、つらさを感じるのであれば、単純に自殺をすればよいことになり、瞑想などをする必要はないでしょう。

 そこで、自殺を防いでいくためには、死んだとしても、ずっと生まれ変わり続け、「苦」の状態が継続していくという神話が必要なのでしょう。

 しかし、上座仏教の実践を真しに続けているみなさんは、一種の方便としてそれを述べているのではなく、完全に信じ込んでいる人が圧倒的多数の印象です。

 そこに違和感を抱く人がいると、すぐに、輪廻説が述べられている経典をソラで言える人も少なくありません。

 傍目では、瞑想にはまり込みすぎて却ってクオリティ・オブ・ライフが下がっているのではないかと思われる人もいるのですが、そのような状況になってまで、瞑想実践が続けられる理由は、本気で、輪廻という現象が生じ、「苦」の継続から逃れるためには、上座仏教の瞑想実践を続けるしかないと信じ込んでいるからだと思われます。

 まあ、この辺りは、臨済禅の公案修行をしている方々にも似たような感じの人が少なからずおり、上座仏教の特徴というわけではないのでしょうけれど。



 「普通の」感覚では、単なるオカルトとしか思えないのですが、スマナサーラ長老以下、輪廻説を「宗教ではない、真理である」という違和感。

 当初、スマナサーラ長老が、信じることを否定し、合理性的に物事を語っているように思えたイメージがすっかりなくなりました。

 スマナサーラ長老の法話には、その人物を感じさせるものが多く、好感を抱いていたのですが、宗教家にすぎないということかと思います。

 やはり、「真理」「真理」と言う人は、怪しいということでしょう。

 考えてみると、上座仏教に係る人には、(上座)仏教の勉強をすることについて、「私は、真理を知りたいだけですから(=信仰しているわけではない)」というような言動をする人が多いですね。

 

 スマナサーラ長老は、キリスト教イスラム教等の他の宗教を強く批判することで知られていますが、キリスト教徒の方でも、同じ論理で「神の不存在の証明ができないのだから、神の存在を否定することはできないはずだ」という反論をしたくなるものでしょう。



 「是非云う人は、之是非の人」であって、自分自身のこのような物言いも気恥ずかしくあるのですが、私と同様に、スマナサーラ長老の著書を読んで、上座仏教は、神秘主義ではなく、合理的なイメージをもっていらっしゃる方もいようかと思いますので、ご参考までに。





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個人の人生の充足と、他者=世界の調和との一致点としての「慈悲」

臨済のいう出家とは伝統的な生活からの逃避と解すべきではない。家とはわれわれの生命を囲繞して圧迫阻害する偏見的思想、反生命的価値観、環境対象に牛耳られる執着――即ち人間の生命を幽閉するもろもろの化石的な殻という意味である。従って禅門における出家とか、破家散宅とかいう意味は、――換言すれば一切を自由に所有すること、一切に対して自由なる君主として振舞うことに他ならない。(略)

臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るところ、執着するところを殺戮して行く破邪の剣である――「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得て物と拘わらず、透脱自在なり。諸方の道流の如くんば、未だ物に依らずして出で来る底にあらず。」――自己の自由と主権とを阻害する一切の対象は破壊されねばならない。」

(前田利鎌『臨済荘子』40~42頁)



最初、この言葉に接した時には、胸躍るものを感じました。

自分と同じように感じている人を見つけると、大きな力を感じるので。

ちなみに、同じ本の冒頭部もふるっています。



「古代の自由人は、人間の積極的な活動を阻害する三個の怪物を殺戮してしまう。――精神の粘着停滞する対象と、精神の奔放な発動を圧迫する禁止的価値観と、われわれの大胆な自己主張を畏怖せしめる死の脅威とを。そして自我の本質を把握することによって、これらの反生命的怪物を喝散し尽す自由人が、しばしば人もなげに高らかな哄笑を擅(ほしいまま)にすることに何の不思議があろう。」

(前掲書9頁)



痛快。

だから、当初は、仏教や禅の本の中で、道徳や倫理を説くようなものについて、納得いかないものを感じていました。

 

「ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提となっている、「人間」とか「正しい」とかいう物語を、破壊してしまう作用をもつものなのである。」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』37頁)



こんなフレーズに共感を持っていました。

けれども、しばらく経つと、結局、このような捉え方は、一枚悟りにすぎないのではないかと感じられてきました。


 
衆生本来仏成。

悩み、苦しみ、迷うこのままのあり方でよいとして、ではどう生きるのか。

「どう生きてもよいのだ」という答えによって、どう生きる「べき」かの問題が克服できたと思った瞬間、また、類似する問いが次元を変えて現れ出てくるのです。



ミャンマーでは瞑想の実践を中心として多くのことを学ぶことができ、おかげさまで、私自身の実存的な関心として生死の問題に悩むことは、もうありません。

ただ、自分にとっての生死の問題(己の中の有限と無限の問題)に、いちおうのけりがついたとしても、その上でこの有限の生をどのように生きるべきかという問題は残ります。」

(魚川祐司発言・藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』4~5頁)



迷いの檻から脱して、自由になったと思ったら、出た瞬間、自由の無限の荒野でどちらに進むかでまた悩むのです。

自由の荒野の中にあって、暴君のようにふるまって生きてよいかについては、もう一つ悩む。

人は、どう生きてもよい。

どう生きても、そのほかの生き方と変わるものがない。

しかし、暴君のような生き方に満足できるか、却って新たな苦を背負いはしないか。

「暴君のようにふるまって生きてよいか」という悩みが出る以上は、全く問題がないのだと言ってもよいともいえるのだけれども、問が出た以上は悩んでみる。

悩み、苦しみ、迷う、このありのままで仏なのです。


 
唐突ですが、そこで発見したものが、「慈悲」でした。

ただ、端的によいと思いました。

ずっと、以前からよいと思っていたのだけれども、気づいてみると、深い確信を抱きながらそれが絶対的に「よい」のだと思うようになっていました。



「仏教は慈悲を以て主旨とする」(釈宗演『一字不説』2頁)

 
 
その端的の一枚悟りに安住してやろうという気になりました。

しかし、それは全く安住しないことでもあるのですが。

 

「よく心得てほしいのは、衆生本来佛で、衆生の外に佛なしならば、何も彼もこのままでよいのではないかと、反省も修行もまた見性の体験も否定する人が現に沢山ありますが、飛んでもない誤りであります。これを吾々は無事禅といって恐るべき法敵として戦っておるのでありまして、こんなものに断じてだまされてはなりません。」

(原田祖岳『白隠禅師坐禅讃講話』24頁)


 
無事禅に安住することなく、無事でいる道こそが、慈悲であろうかと思います。

その実践には、向上に向け、悩み、苦しみ、迷いがあり続け、安住は無いのですが、悩み、苦しみ、迷う日々の充実の中に安住があるのです。



「重荷を負うた人の為めに其の荷を分けて担うて上げた時の端的な実感」

西田天香『托鉢行願』7頁)



利他自利の端的は、このようなところにあるのだと思います。

「自利利他」とよく言いますが、「利他自利」の方が凡夫のための標語にはよいように思います。



「大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ。」
 
(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)

というのも、同じ消息を少し体育会系的に言ったものといってよいでしょう。



人間が充実した人生を送っていくためには、自己肯定感が必要です。

自己肯定感は、自分で思い込むだけでは持てません。

そこには、自分を承認する他者の存在が必要です。

けれども、他者におもねって、自己を殺してしまえば、やはり、自己肯定感が失われてしまいます。

私たちの悩み、苦しみ、迷いの根源は、このような他者との微妙な関係性によってもたらされるものといってよいでしょう。

 

他者に対して無関心となり、他者との関係性を断つというのも、一つの解決策ではあり得るでしょう。

上座仏教の(物理的)出家主義は、それを目指すものといえます。

しかし、彼等ですら、独り荒野で暮すのではなく、同じ仲間のいるサンガ、同じことをやっているので、当然、自己を承認してくれる仲間の中で生活するのです。


 
このような自己の人生の充足と他者=世界との調和とを一致させるあり方が、「慈悲」を生きるといってよいと思います。
 
 
 
ただし、気をつけなくてはならないことは、繰り返しになるように思いますが、「慈悲」とは他者の奴隷になることではないということです。

慈悲の根源には、私達一人一人の自発性がなければなりません。

なんとはなれば、この体自体が、慈悲をこの世界に実現していくための重要な資産であり、大切にしなければならないものだからです。

ブラック企業や「やりがい搾取」を許してはなりません。

慈悲を生きるということは、二元論者の方のような「デクノボー」になることではありません。

世界に尽くすための手段は、私には、この体しかなく、この体を大切にしなくてはならないのです。



「社会のために勉強し、社会のために生きる、道のために飯を食い、道のために茶を飲むというように、道のためにするのでなければならぬ。道のために尽さねばならん身体だから、お互い不養生するわけに行かぬのである。自分のだけのためならどうでもよい。」

澤木興道『禅談』313頁)


 
釈宗演老師の場合は、このようにおっしゃいます。



「大事業のみではない、何事をやろうとする能く働き、そして能く休まねばならぬ。(略) いつ何時でも、眠むるということは容易ではありませぬ。朝から晩まで追い廻されて、安らかなる眠むることも能きず、一生あがき死に死んで了うのであります。差引勘定して見ると、何等残るところはありませぬ。だから大いに休息することです。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』57頁)

あるいは

「健全なる身体であるならば、無数の細胞が新陳代謝を続けて身体の中に活動して居るのである。人類社会もそうで百年も千年も新陳代謝が行われず其儘にして行った時は、宗教も道徳も悉く退歩して仕舞う、細胞が怠けると病気になり、遂に死滅に帰していくのである。故に我々は先ず體中の小さな蟲一匹として、即ち社会の一員として此健康を保ち、そうして常に怠らずして努めて以て病気に打勝ち、常に健康にならなければならぬ。」

(釈宗演『快人快馬』185頁)





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仏教はなく、禅もない

「全部が仏法であり、特別なものは、何に一つもなかったのです。したがって仏法は特別な神がかり的な自己満足的修行することではなかったのです。何故ならば、一切衆生悉有仏性だからです。したがって宇宙の全てが仏性、即ち真実です。故にこれこそはという特別であるものは、全てあってはならぬことです。こうしてみると、全てが仏性であり真実であってみれば、特に外道というものがあるわけではないのです。」

(酒井得元「永平広録について」23頁)




「おそらく、禅者たちは一連の教理をもっているであろう。だが彼らは、自前で教理をもち、自分たちの便宜のためにもっているのであって、禅そのものにそれがあるわけではないのだ。したがって禅には、聖典とか教義個条といったものはあり得ず、ましてや禅の奥義に到達するよすがとなるような象徴的形式といったものもない。ではいったい禅は何を教えるのだと聞かれたら、禅は何も教えはしない、と私は答えるであろう。」

(鈴木大拙『禅仏教入門』16頁) 


「禅そのものの説明ということはあり得ない。禅そのものはないからである。」

上田閑照『禅仏教』3頁)



「仏教として主張するものが何もないのが仏教だ」

(中川正壽「ドイツの地に曹洞禅の種を蒔く」
https://www.bukkyo-kikaku.com/archive/bk_tusin_no21_2.htm



「禅はどこまでも説明のできぬものである。何等の前提なしに、すべてを断定する。それ自からが其れ自身を証明する、決して他の弁証を待たない。天は天なり、地は地なり、それで万事を尽しておる。此処を言詮不及とも、意路不到とも云う。」

(神保如天『従容録講話』序)



臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るところ、執着するところを殺戮して行く破邪の剣である――『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得て物と拘わらず、透脱自在なり。諸方の道流の如くんば、未だ物に依らずして出で来る底にあらず。』――自己の自由と主権とを阻害する一切の対象は破壊されねばならない。」

(前田利鎌『臨済荘子』41~42頁)



「人は生き方を知る前から生きている」

野口晴哉『風邪の効用』)



私たちが生きていくのに、特別な教えや、特別な実践は必要ない。

特別な教えや特別な実践が必要だなどと思ってしまうのは、仏教等を知る前からきちんと生きていたのに、どういうわけか、そのことを忘れてしまったからだ。

悩み、苦しみ、迷いがあっても、今、きちんと生きている。

確かなことは、今、生きていること。

悩み、苦しみ、迷いがあっても、生きていく能力があること。

不安は、妄想にすぎない。



坐禅は、それを感受するためのもの。

特別なものがなくても問題がないということを感受するため、特別なことをやめる。

だから、口は閉じ、手は印を結び、足はしっかり組んで、特別なことをやれないようにする。

けれど、感受するためには意識がしっかりなければならないから、背筋を伸ばし、目を開いて、しっかりと意識を保つ。



坐禅はただやらなくてはならない。

何かのためのものにしてはならないというのは、その意味だ。

悟る、解脱する、三昧に入る、集中する、健康になる・・・坐禅を何かのためにやろうとすると、坐禅が「特別な実践」になってしまう。

特別なことをやらないことではなくなってしまう。

習禅が否定される由縁だ。



余り難しく考えなくてもよいように思うけれど。

このように語ってしまった時点で、多少なりとも「特別な教え」が現れ、坐禅は「特別な実践」になってしまう。

だから「不立文字」という。





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【参考資料】仏教/禅は自由を説く

(1)鈴木大拙

1)「禅は心を純粋の虚無にするがごときまったくの否定ではない。何となれば、それは知的自殺だからである。禅には何か自己肯定のものがある。しかもそれは自由であり、絶対である。そして限界を知らず、抽象の取扱いを拒むものである。禅は溌剌としている。それは無機の岩石、虚無の空間ではない。この溌剌たる何物かと接触すること、否、人生各方面にわたってそれを捕らえることがすべての禅修行の目的なのだ。」(『禅学入門』49頁)

2)「積極的に云えば「無我」とは「無辺の慈悲」です。キリスト教的に云えば愛、儒教的に云えば仁であります。無辺の慈悲は我を棄てて、自分より大なる心と合体することであります。而して自分より大なる天地の心、その心の活動の上から見れば何も始めから不自由というものはないのです。」(『向上の鉄鎚』29頁)

3)「吾らは対立の世界にある、対立の世界におるから苦痛があるということもある。苦痛があるところをどうしても出たいというのが人間である。そう出来ている中から出たいということは、そう出来ているものを棄てるということでなくてはならぬ。棄てることは、すべての値打から離れるという意味である。ところが値打というものは、二つのものがあるところから出るのであるから、その二つの中におる限り、吾らはどうしても自由がないのです。」(『無心ということ』29頁 )

4)「自由を得ることは、善悪などの値打のつけられる世界を超越してしまうことです。無分別の世界に這入ってしまうことです。無分別の世界に這入るから神通遊戯(ゆげ)と言われる。神通とは自由、遊戯とは自主者の行為です。遊戯三昧、すなわち何ら他から拘束せられることがないのです。」(前掲書30頁)

(2)中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』

「三九 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところの赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
 四〇 仲間のなかにおれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ独り歩め。」(18頁)

(3)藤吉慈海

「禅の実修体験はものに執われない自由な主体性の確立を促すもので、それが人間の自由な創造意欲をたかめ、独創性に富む芸術作品やいろいろの禅文化を創造せしむるにいたる。したがってそのような禅芸術や禅文化を鑑賞することが禅的主体性の確立に役立つことも当然なことである。」(『禅と浄土教』53頁)
「人々見得すべき底の自性」とか「徹了すべき底の宗旨」というのは「自性真仏」といわれるようなものであって、仏教一般でいう「無自性空」なる、無的主体に相当する。したがって、禅では「自性」というが、それは「無的な自在」であって、「無我的主体」とか、「無的主体」と呼ばれる。そのような自己が本当の自己であるから、無的主体こそ「真実の自己」といってもよいであろう。「真実の自己」は無形無相であって、「形なき自己」といわれるが、それは虚無ではなく、創造的な無的主体である。それは無にして形なきゆえに、あらゆる形を自由にとることはできないであろう。そこに禅的主体の無礙自在なはたらきの根拠がある。とくに臨済禅が、はたらきのない鬼窟裡の禅を嫌うのは、参禅者がとかく坐禅に安住して、寂静主義に陥るからである。つねに活溌々地の生き活きしたはたらきを禅者に期待するのは、無相の自己には創造的作用の面があるからである。公案の商量を開悟の手段方法とするのも、臨済禅が、本来そのような寂静主義や鬼窟裡の禅を嫌うからである。」(前掲書93頁)

(4)前田利鎌

「古代の自由人は、人間の積極的な活動を阻害する三個の怪物を殺戮してしまう。――精神の粘着停滞する対象と、精神の奔放な発動を圧迫する禁止的価値観と、われわられの大胆な自己主張を畏怖せしめる死の脅威とを。そして自我の本質を把握することによって、これらの反生命的怪物を喝散し尽す自由人が、しばしば人もなげに高らかな哄笑を擅(ほしいまま)にすることに何の不思議があろう。(略)そして「白雲影裏笑って呵々たり」という禅坊主の哄笑のうちにも、確かに(略)地上に低迷する人間を笑殺せんとする、あの魔的な響きが感ぜられる。高揚の笑、征服の笑、共に手を携えて行かんとする知己の笑――禅門には美しい笑いがある。笑のない禅とはいかに索寞たるものであろう。朗らかな哄笑は恒に健康な精神の徴候である。日蓮がかつて「禅天魔」といって禅門を弾劾したことは、かえって禅僧の健康な一面を証拠している。」(『臨済荘子』9頁)

臨済のいう出家とは伝統的な生活からの逃避と解すべきではない。家とはわれわれの生命を囲繞して圧迫阻害する偏見的思想、反生命的価値観、環境対象に牛耳られる執着――即ち人間の生命を幽閉するもろもろの化石的な殻という意味である。従って禅門における出家とか、破家散宅とかいう意味は、――換言すれば一切を自由に所有すること、一切に対して自由なる君主として振舞うことに他ならない。

(略)

 臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るところ、執着するところを殺戮して行く破邪の剣である――「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得て物と拘わらず、透脱自在なり。諸方の道流の如くんば、未だ物に依らずして出で来る底にあらず。」――自己の自由と主権とを阻害する一切の対象は破壊されねばならない。

(略)

 臨済は一物も与えずして、徹底的に奪って行く。飢人の食を奪い、耕夫の牛を駆る、というものもこの消息を語るものである。己を確立して自由な自然児になるためには、人惑迷執を惹き起す一切の偶像は破壊せられねばならない。先ず仏門における最大の偶像は――仏である。仏を礼拝するは愚か、仏に自らなろうとするのが已に人間の無知を語るものである。臨済は寸毫の仮借なく、口を極めて伝統的な既成概念を罵倒している。――いわゆる仏を求め、法を求めるのも一種の迷妄である。それらは一種の抽象的な概念――名句、名字にすぎない。単に頭の中で捏ね上げた仏などは、俺の眼から見れば、糞壺――厠孔のようなものだ。菩薩羅漢の如き概念は、尽くこれ首械、手械、人を縛する底の邪魔物である。従ってそれらのものを御大相に書き記したような、一切の経文の如きは、「不浄を拭うの故紙」にすぎない。古人の言説や経文に没頭するのは、「糞塊上に向って乱咬する」の醜態ではないか。それにもかかわらず、一切の学人どもは、聞きかじり、読みかじりして教理などを語って得意でいるが、そんな醜態は糞塊を口に含んで、また人に向って吐き与えるようなものだ。」(前掲書40~43頁)

(5)柳田聖山

「およそ行為の自主性は、善悪の判断より自由であるにある。「心を起し念を動かし云々するのが、すべて仏性の活動そのもの」というのは、まさしく『金剛経』の「応無所住而生其心」に当る。「知」は無所住である。

(略)無所住は無心である。無心は単に無生物のそれに意味があるのではない。無意識、無分別がよいのではない。ダルマに帰せられる『無心論』は、敦煌の禅籍の一つである。この本は、無心を日曜の見聞覚知のところにありとし」(『禅思想』137頁)

「もともと仏法の生きざまは、既成の規準を吹っきる根源的な自由さにあった。普化の魅力は、そんな仏法本来の生き方を、なんのためらいもなく、現に生きぬいたところにあった。かれの生き方は、あまりにも自由であったがゆえに、臨済のほうがややもすると常識に堕ちた。」(前掲書163~164頁)

(6)秋月龍珉

「「なぜ?」と問いかけて、問うことの要らぬ境涯を手に入れさせるためだ。「世の中は窓より出づる牛の尾の引かぬに止まる心ばかりぞ」(道元)。箒をなげ出して「またがず通れ」という。ささとまたいで通ればよい。誰もひきとめている者はいない。「カギの穴から入ってこい」と言われても、ドアはあけて入るよりほかはない。ほかにあったら、「仏法に不思議なし」の語に背いて仏法ではなく魔法だ。家ではお茶を毎日簡単に飲んでいるのに、茶室に突っ込まれると自由を失う。しかし、これがまた大事なことだ。一度「因甚麼」で否定されて、はじめて真の自由なはたらきが身につく。柴山全慶老師も「正念とは、念が働いていないということではない。見て見るという跡を残さない心境に生きることである」と言われている。」(『公案』222~223頁)

(7)有馬頼底

「仏教ということ自体が既に“こだわり”なんです。経典に縛られていたらあかん。もっと自由にあなたの自然の姿で人々に接したらいいと、臨済は言うのです。」(『臨済録を読む』112頁)

(8)アルボムッレ・スマナサーラ

ブッダの本来の教えは、あらゆる儀式・儀礼・お祭りなどの束縛からも、あらゆる先入観からも、人の心を解放させて、自由を経験させることです。」(『これでもう苦しまない』197頁)

(9)佐藤悦成編『雪竇頌古百則の研究(一)』

「雪峰は急所にひとっきくらわしさえすればよいことを知っていたから、自己以外に仏を求めるな、と一句で言い切った。さらに、慧能の無一物の境地にさえ囚われるなと説き、春に百花が咲き乱れる光景を、本来の自由の境地を誓えるのである。」(9頁)

(10)釈宗演

「吾人(ごじん)の一挙手、一投足は、悉く大道そのもので、吾人は、大道の真唯中に自由自在に思うままの活動をしていなければならぬ筈である。それが出来ないというのは、外境に囚われ、それに執着し、束縛されて、自由の分を失うからである。若し、一切の繋縛から脱離して、安住不動須弥山の如しという、身心脱落の境界に達したならば、各人本来具有の天真仏が現れて、縁に応じ、境に従い、何んの苦痛もなく、スラスラと自由自在の行動が出来るであろう。」(『禅』122頁)

「修養の上から見れば、洒々落々として、すること為すことが、自ら道に合うように為って来ねばならぬ。悟りということは難しく論ずることは偖(さて)措いて、一種の修養から練り出した心の光りであると、恁う見たら宜しい。恁ういう工合に、自由に為って来れば、何事をするにも取り外しがありませぬ。独りで寂しさを感ぜず、楽しんで仕事をすることが能(で)きます。」(「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』19頁)




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【参考資料】現象に徹し、現象の要因、背景を妄想しない

 禅が不立文字というのは要するにこういうこと。
 
 一言でいえば……



「禅そのものの説明ということはあり得ない。禅そのものはないからである。」

上田閑照『禅仏教』3頁)



 この後には、「あるいは、『風が吹く』ーーそれが禅であり、『腹が痛い』ーーそれが禅だからである。」と続きます。

 ある程度つかんでいる人には、好い例示ですけれど、却って難しくする人がいるような感じもします。


 
 親切に言うと…… 



「黒いものを黒いといい、白いものを白いと云うのが禅の本領である。柳は緑り、花は紅い、烏はかあかあ、雀はちうちう、みんな同じ道理である。此の道理に徹底した人を悟ったと称して居る。
 禅はどこまでも説明のできぬものである。何等の前提なしに、すべてを断定する。それ自からが其れ自身を証明する、決して他の弁証を待たない。天は天なり、地は地なり、それで万事を尽しておる。此処を言詮不及とも、意路不到とも云う。

 私どもは何の為に生れたか、何故死ぬるか、這んなことは問題にならぬ。何の為でも、何故でもない。生れたから生きておる、死ぬから死ぬるのである。それ以上何と理屈をつけても詮無いことである。生を生とさとり、死を死とさとれば、それでよろしい。人生のすべては斯くして解決されるのである。」

(神保如天『従容録講話』序)



 神保老師は感動の名文句!



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