坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

利他は個人の自由意志に基づかなくてはならない。

「仏教は慈悲を以て主旨とする」(釈宗演『一字不説』2頁)



 仏教と呼ばれる宗派には色々あるけれど、その共通する本質は、慈悲、すなわち、利他であるとつくづく思う。



大慈悲を有(も)ってあれば、誰れでも(略)、立派な佛であります。(略)慈悲心のある所は、佛のある所、慈悲心と、佛と意味は共通しています。(略)
『佛心とは大慈悲心是れなり。』というところへ来ては、悟りといい、理屈というようなものは入要(いりよう)ありませぬ。」(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』217~218頁)

「自然に同情の心が起る。此心が即ち慈悲であります。(略)種々(いろいろ)の宗教があると雖も、(略)真理は古も今も変って居ない。(略)仏教で言えば、佛心とは大慈悲是れなりで、(略)基督教で言っても、同じこと、愛と言い、loveと云い、(略)皆是れであります。」(前掲書322~323頁)



 禅の修行、特に、坐禅(就中、只管打坐)は、心に余裕を作り出して、このような慈悲の実践=利他行為を可能にするよくできたエクササイズだと思う。

 少し残念なのは、坐禅公案参禅等の禅の修行をしている人たちには、自己の精神的向上(満足)に力が入りすぎ、日常の利他行為を等閑視している人が多いこと。

 自己の精神的向上を図る目的は何かということを工夫すれば、自明のことなのではないかと思うけれども……。
 
 十牛図的な禅修行の階梯が意識されることによる不利益であると思う。



公案禅は開悟という点で顕著な効果を収めたため大いに流行した。殊に大慧宗杲は、この方法を用いて士大夫を含む多くの弟子を養成し、社会全体に大きな影響を及ぼしたため、一般に『公案禅の大成者』と呼ばれている。しかし、公案禅の成立が、結果として禅に平板化をもたらし、その魅力の逓減を来たしたことは否定できないように思われる。
(略)
公案禅の流行は、やがて『無門関』に見るように公案集の内容をも変質させるに至った。そこでは、従来、かなりの比重をもっていた文学的趣味的性格が後退し、公案による悟りの獲得に絶対的な価値が置かれ、それを得るための修行の強調や、修行者への教誨、激励がその主要な内奥となっているのである。
 これは、いわば、悟りのマニュアル化であるが、こうした傾向は同時期に次々と現われた『牧牛図』にも窺うことができ、この時代の禅思想を特徴づけるものと言える。(略)
 このような著作が、叢林を覆いつつあった管理体制を心の中にまで導入し、強化したという側面も無視できない。」
(伊吹敦『禅の歴史』121~123頁)



 利他行為などというと大仰だけれど、短者は短法身でできることから少しずつすればよいと思う。



 コンビニエンスストアで買い物をする際、店員さんに商品を渡すときに「お願いします」と言い、商品を受け取るときに「お世話様でした」と言う。
 
 朝、早起きして、近所の道を箒で掃き、人が来たら、「おやようございます」とあいさつする。

 通勤する時に、コンビニ袋を手に持って、通り道のゴミ拾いをする。



 ちょっとした工夫でできることはある。

 少しずつでよいから繰り返して、やることを拡げていくと、見える世界が確実に変わります。
 
 最近、目にした「一燈園」の創始者で、ウイキペディアによれば、南禅寺の豊田毒潭、河野霧海、建仁寺の竹田黙雷に参禅したという西田天香の著書の次の言葉は我が意を得たりという感じがします。



「諸所で『一燈園生活の要領を言え』とのお尋ねに接しますが、これは比喩を以てお答えする外はないと存ぜられます。私は次のような例を引いてお答えしております。
『重荷を負うた人の為めに其の荷を分けて担うて上げた時の端的な実感と、過去もなく未来もなく刹那々々を全人的に生き切った気持!』」

西田天香『托鉢行願』7頁)

 
 
 「其の荷を分けて担うて上げた時の端的な実感」!

 自利利他の端的、修証一如の端的が、わかりやすく利他行にはあります。

 生死に関する釈宗演老師の次の言葉にも、同じ端的が示されていると思います。



「死の覚悟と言う外に別に覚悟はない(略)其日々々感謝の念に住して愉快に送っていくのが、それが衲の安心(あんしん)である。(略)只息を引取る時迄各々其日々々の務をして、スーと息を引取ったらそれで早や本望である。大悟徹底も即ちそれである」(釈宗演『快人快馬』181~183頁)

「今日々々を積み重ねて往くのが人間の一生(略)。筆持つ人ならば、筆を持った儘瞑目してそれで可い。(略)算盤弾く人ならば、算盤弾きながら、息を引き取っても、それが本願であろうと思う。ところが切めて死ぬ時ばかりは、坐禅でも組んだまま(略)、立派な死ざまをして、息を引き取ってみたいというような考えでいる者もあります。(略)どちらかと言えば迂闊な考えと言わなければならぬ。人間というものは、自己の職分と共に斃れたら、それで立派なものである。(略)朝から晩まで、孜々矻々(こつこつ)として奮闘努力し、向上して止まぬ精神を有(も)っているならば、(略)病気に取り付かれ、七転八倒逆立ちに為って死んだとて別に何の残り惜しいこともない訳であります」(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』422~423頁)
 
 

 「其日々々の務」の更に詳細な説明が「向上して止まぬ精神」を持ちながら、「朝から晩まで、孜々矻々(こつこつ)として奮闘努力」することなのでしょう。

 そして、それが「大悟徹底」、すなわち、禅修行の目的であり、そうすれば、「自己の職分と共に斃れ」ても満足ということなのかなと思っています。



 私は、このような人生観が好きです。

 同時に、このような捉え方が組織の論理に持ち込まれることに対しては慎重にならなければならないと思います。

 このような論理が会社等の組織に持ち込まれると、最近問題になっている「ブラック企業」等に見られるような「やりがい搾取」、「労働搾取」を肯定しかねないからです。

 

 利他行為/慈悲の実践をするといっても、私たちは、それぞれの体をベースにして、この世界に作用を及ぼさざるを得ないのですから、まずもってこの体の健康というものが大切であり、慈悲の宗旨から言っても、ブラック企業や「やりがい搾取」の類が肯定されてよいわけではありません。

 釈宗演老師も



「我々は先ず体中の小さな蟲一匹として、即ち社会の一員として此健康を保ち、そうして常に怠らずして努めて以て病気に打勝ち、常に健康にならなければならぬ。健康になったならば、更に一層勇気を鼓して働こうというのが、それが一種の宗教的信仰であろうと思う。」

(釈宗演『快人快馬』185~186頁)

「昔の人が『能く働き、能く休む』といっているが、此言葉は大いに味わうべきことであると思う。休むというても、不道徳の遊びをするのではありませぬ。大事業のみではない、何事をやろうとする能く働き、そして能く休まねばならぬ。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』57頁)


 
と仰るところです。

 しかし、このような考え方は等閑視されやすいと感じています。
 
 特に、利他行為を推奨しようとする宗教団体の内部では起こりがちであると思います。



 宗教活動が組織的に行われるようになると、そこに「やりがい搾取」が生じがちであることからすると、宗教活動の「肝」であるところの利他行為は、純粋に個人の自由意志で行われなければいけないと強く感じます。

 宗教活動の「肝」が利他行為であることからすると、そもそも宗教団体の存在価値をどう考えるのか、という感じもします。

 情報の流通が停滞しがちだった過去の時代はさておき、情報の流通が迅速な現代社会においては、利他行為の重要性を伝えること、そこかしこに利他行為に邁進している人がいることを伝える上で、宗教団体というものの必要性は乏しいのかなと思います。

 利他行為には、特別な施設はいりません。

 また、余程特殊な行をするのでなければ、そのための特別な施設もいらないでしょう。

 

 衆生本来仏也。



 何もやらなくても、特別なものが何もなくても仏なのですから。



 ……とはいえ、仏教的なサンガの存在価値が全くないわけではないとも思われるので、その点については、また別稿で触れたいと思います。



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生まれてきた理由

「人間は誰かを愛するために生まれてきたのです。誰も愛さないで死んでいくことは、せっかく生きてきたのに惜しいことだと思います。
 もちろん、愛したらいろんな苦しみがともないます。けれどもその苦しみを味わわないと、人間の真のやさしさとか想像力とか、本来的に人間に備わっている素晴らしい力が表に出てこないのではないでしょうか。」

 ネットサーフィンをしていたら出会った瀬戸内寂聴さんの言葉。
https://dot.asahi.com/dot/2019122400048.html?page=2

 凡庸といえば凡庸だけれど、人により味わいの有無があるのは面白い。。
  
「物に対して誰が命令するか分からないが、自然に同情の心が起る。此心が即ち慈悲であります。(略)種々(いろいろ)の宗教があると雖も、世に臨む所以は皆一つである。(略)真理は古も今も変って居ない。東でも西でも異って居らぬと云うのは、吾々が頼みとする所であります。之れを仏教より言えば、佛心とは大慈悲是れなりで、結局此の大慈悲に外ならぬのであります。又基督教で言っても、同じこと、愛と言い、loveと云い、God is Love:Love is Godと云う、皆是れであります。」
(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』322~323頁 注1)

 とはいえ、元の記事のタイトルが、「『不倫でもいい』から恋愛すべき」というものなので、それはちがうだろうとうがった向きもあるかもしれません。
 しかし、次の鈴木大拙先生の言葉からすると、やはり味わい深いと思うのです。

「禅は、要するに、自己の存在の本性を見ぬく術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。(略)それはわれわれの心に生まれつきそなわっている想像と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせることである。一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。」
鈴木大拙『禅』41~42頁)

「生まれつきそなわっている想像と慈悲の衝動」と「人間の真のやさしさとか想像力とか、本来的に人間に備わっている素晴らしい力」との対応関係を考えると、また味わい深い。


(注1)「誰が命令するか分からないが」というところもよいですね。


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当処即蓮華国

「大に有事にして過ごす処の人間,今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で,何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで,あくせくと働いて其上が,しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。」
(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)



 年初に道友らと顔をあわせた際,この宗活老師の著書の言葉を,「当処即蓮華国」とのタイトルで紹介したのだけれど,「難しい」と言われてしまった。
 難しいのかなあ,端的だと思うのだけれども。
 
 そう思っていたところで,たまたま積ん読していた上田閑照『禅仏教』に目を通していたところ,よい言葉が見つかりました。



 「『疑団』が解けるのは,問に対して答が与えられるという仕方ではなく,疑団そのものが瓦解氷消するという仕方である。『直に得たり,瓦解氷消することを』。それは問そのものがなくなることである。(略)『平常無事』といわれる。(略)恐るべき問も問題でなくなるこの『平常心(びょうじょうしん)』こそ同時に,単なる日常の内に真の不可思議を見得るのである。不思議といえば『薔薇が咲いている』というなんでもないそのことこそが不可思議なのである。『疑団』が解けた時,ある僧は『也太奇(やたいき),也太奇』(不可思議)と叫んだ。そしてまた,『一』から問いという性格が脱落すると同時に,『一』にも停まらず,無限の『多』に多としてそれぞれに応接してゆき得るのである。散乱せしめられることなく『無事』の内に多事に処し,平常心において多難に心労するというあり方である。」

上田閑照『禅仏教』54~55頁)

 「平常心において多難に心労する」
 
 ……いいですね。こうありたい。とういうか,よくよく考えると,誰しもすでにこうあるのですから,面白い。



 当処即蓮華国,衆生本来仏也。



 単に気づいていないだけです。

 そして,気づく必要もない。

 次の鈴木大拙の著書の一節も同じ文脈で大好きです。


「浄土でぽかんとしていては,手持ち無沙汰でしようがないに決まっておる。還送廻向とかいうことはいやでもしたくなるであろう。して見るとこのままの穢土でよのでなかろうか。痛い事も,つらい事も,苦い事,悲しい事,惨めな事もあるので,面白いというてはいかぬか知れぬが,まあそれも可もなく不可もなしか。(略)
 悪いことがある,悲しい事がある,そのままを肯定して,忍受するのでない。悪い事を善くする,悲しい事は嬉しくする,その後から又悪い事,厭な事が簇がり起る,起れば又これを善い方へ転ずる,転ぜんと努める。これを穢土というてもよし,浄土というてもよし,とに角,こんな塩梅でせつせつとくらす。而して離有なみだを流す,死んでからは,他力でどこかへ行く,又行かなくてもよい。」

鈴木大拙『百醜千拙』165頁)

 
 
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仏道修行者と知能が平均以上の自閉症(その1)

1 自信の持てない仏道修行者

 ちょっとの勉強のつもりで、自閉症の本を読むようになったのですが、現在の自閉症の研究の知見を踏まえると、仏道に絡むいろいろな現象について、合理的に説明ができるように感じています。


 なお、念のためですが、最近の研究によれば、自閉症は、能力の欠落ではなく、脳のネットワークの器質的な構造が多数派に属していないことによるコミュニケーションの困難であると捉えられており、おそらく、マイノリティの個性に対する差別の問題であると捉えるのが適切で、これを疾患として捉えるニュアンスの「自閉症」という概念には、疑問があるのですが、他に社会的合意のある適切な概念がないようなので、以下、便宜「自閉症」という用語を使います。(注1)


 グリーフケアのボランティアの関係で、発達障害自閉症)の人がくることもあるときかされて、勉強を始めたのですが、たまたま仕事で担当(?)することとなった、それまでの私の視点では、寄行と思えるような人について考察をする中で、その人と、勉強していた自閉症の人の特徴とが一致することに気づきました。

 これが最初の切っ掛けでした。
 
 同じような人がいるのではないかと、自分の周りで、理解の難しかった人について、同様のことを当てはめた所、どうも矛盾するような言動が整合的に説明できることがわかりました。

 実際、別の業界で働いている友人から、「頭がいいけど、コミュニケーション能力が低くて、周りから浮いている部下」のことを聞かされて、自閉症であることを前提に、対応方法についてアドバイスした所、そのやり方でうまく行ったという話を聞かされました。

 そのうち、坐禅会や瞑想会で接する禅やテーラワーダの実践をしている人にも当てはめることが出来るのではないかと感じるようになりました。

 そんな検討の一端がしばらく前に投稿した「理系の人が仏道に興味を持つ要因?」という記事です。


 坐禅会や瞑想会で接する禅やテーラワーダの実践をしている人の矛盾する言動というのは、知的水準が高いのに、自己肯定感が低いことです。

 知的水準の高さは、素直に考えれば、自己肯定感の高揚に結びつくはずです。
 
 知的水準が高ければ、色々な問題の解決が容易になる結果、自己肯定感が増すように思われるからです。

 しかし、坐禅会や瞑想会で接する禅やテーラワーダの実践をしている人は、驚くほど自分というものに自信がない人が多い。

 自分のあり方、自分の生き方。

 そんなものに正解はなく、つまるところ、「自分のやりたいようにやればよい」類のもののはずなのですが、どうも、自信を持つことが出来ない。

  
 先日、とある地方の坐禅会を訪れ、以前から知り合いの若干久参の方に車で送っていただいたのですが、途中、雑談をしているときに、その方が、「やはり、ブレない自分が大切だと思う。」ということを真剣な口調で力強くお話になりました。

 とても明るい方で好感を持っていたのですが、このような人でも、根源的なところでは、自分に自信がないのかと驚きました。

 私が、坐禅に興味を持つようになり、いろいろな坐禅会にお邪魔し始めた初期段階のときに、熱心な在家の方から、坐禅の効果として聞かされて驚いたことは、その人が、坐禅の効果として、「本当の自分がわかる」と語ったことでした。

 私は、「自分探し」の類いを好ましいものと思っていません。

 人のあり方に「こうでなければならない」というものはなく、究極的には自分のやりたいようにやればいいことです。

 自分自身の学生だった1980年代から1990年代にかけて、海外に貧乏旅行に行くなどの「自分探し」が一部の人で流行ったことがありました。

しかし、結局、あれやこれや迷っているうちに、迷うだけで実際には何もせずに人生を終える、ということになってしまう。

 それなら素直に自分がやりたいと思うところを一生懸命やればよく、「自分探し」のようなことに時間を浪費すべきではないと思っていました。

 仮に、今の自分がダメで理想の「本当の自分」ではないと思うのなら、理想の「本当の自分」を目指して頑張ればいいだけの話としか思えませんでした。

 その頑張る入口でああだこうだと迷うのは、結局、情けない損得勘定の問題です。


 決断した結果失敗することが怖い。

 絶対に失敗したくないから迷う。


 自分探しなどその程度のものにしか思えませんでした。

 そんな考えですから、当時、「坐禅を通し、本当の自分がわかる」などと言われても、本当にそんな下らないことのためにやるものなのかと驚きました。

その後、禅の本も読むようになってしばらくして、「己自究明」などという言葉を知って、本当にそんなものなのだったのだ、と驚きました。

 言われてみれば、大切な感じがするけれども、私自身には、そのようなものを追求する実存的な必要性が理解できませんでした。

それは、病気などを避けるために医学の知識があった方がいいのだろうけれども、大学の医学部に絶対に入らなければいけないと思うような気にはならないのと同じことだと思います。

 つまるところ、「私」などという観念は、脳の神経系が作り出したフィクションであり、それが「本当はなにか」などと考えるようなものではないのです。

 フィクションである以上、本当なものであるわけがありません。


 なぜ、仏道の実践をする人は、自己を問題にしてしまうのか?

 最近になって、私にとって、問題とならない「自己」を、仏道の修行をする人が問題とする理由は、「自分に自信がないからである」と感じるようになりました。
 
 坐禅等の仏道の実践をする人は、心を強くしたい」、「心の問題を解決したい」という気持がどこかにあり、私自身、坐禅を始めた時には、このような気持ちがあった感じもします。

 自信がないから仏道の実践を始めるということは、よくよく考えると当たり前のことなのかなとも思います。


 しかし、なぜ、自信がないのかの原因を探る価値はあるように思います。

 
 禅にしろ、上座仏教にしろ、マニアックにやる人に対し、不安を抱くのは、坐禅等の瞑想の実践に力を入れすぎて、日常生活の質が低下するのではないかということです。

 実際、マニアックに実践をする人たちと話していると、仕事にしろ、家庭にしろ、何らかの問題を抱えている人が少なくなく、坐禅等の瞑想の実践が、そこからの逃避になっているのではないかと思われることも、少なくないように思われます。

 日常生活の中での生きづらさを解消するために、坐禅等に取り組み始めたのに、坐禅等にはまり込むことで、日常生活を犠牲にするような結果は矛盾です。

 仏道の実践は助道の跡にすぎず、道そのものではありません。(注2)

 道は、日常生活の中で、自分の能力を最大限に発揮しながら生きることにこそあります。

 坐禅等に一生懸命になりすぎてもいけません。(注3)
 
 坐禅等に一生懸命になりすぎることは、結局のところ、人生を精神科の治療だけで終わらせるようなものです。(注4)

 なぜ、知的能力が高く、問題に対する処理能力が高い筈なのに、仕事や家庭に問題を抱えてしまうのか?

 その点について、私は、最近、引きこもりの支援の関係で問題となって居る「知的水準の高い自閉症」であると捉えるとうまく説明できるのではないかと思っています。(続)

《参考文献》
(注1)菊池充・三邉義雄「自閉症の多様性を「測る」――脳科学からのアプローチ」金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』132~134頁
(注2)『今北洪川禅師から山岡鉄舟宛ての手紙』
「看経(かんきん)、礼仏、布施、作福などの事は、ただ助道の跡にすぎないので、道は必ずしも此処に在るのではない。深山窮谷に隠れて草衣木食するようなのは、幽人高尚の志の現われで道とは関係なしと言っても可い。」 
(注3)鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
110頁「多くの人が好奇心から坐禅を始めますが、それでは自分自身を忙しくしてしまいます。修行によって、より悪い状態になるなど、ばかげています。(略)あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校をやめてしまし、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。
 落ち着いて、日常の修行を行っていれば、自分の人格は強いものになっていきます。心がいつも気ぜわしいと、人格をつくる余裕がなく、うまくいきません。
(注4)松本史朗『仏教への道』
138頁「人間がさとりに至るための手段にすぎないとすれば、なぜ人間は苦しむために、愛するために、この世界にみずから生まれてきたのであろうか。また、人間がさとりに至ろうとして、それができなかった場合、彼のいっさいの労苦とその生活に、どのような意味があり得るのか。さとりを一つの客観的な目的として設定し、それに向って進んでいくという直線的思考は、結局のところ、小乗と呼ばれたものと同じではないのか。」
146頁「われわれがこの苦の世界に生まれ生きているのは、愛するためであり、働く歌目であって、苦から逃れるためではない。われわれにとっては、日々の愛や悲しみや労働の生活以外に、釈尊の悟ったさとりを現成せしめる道はないのである。」



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【資料】碧巌録第五則『雪峰大地撮来』

【本則】
 挙す。雪峰衆に示して云く、尽大地撮し来るに粟米粒の大きさの如し。面前に抛向(ほうこう)し、漆桶不会(しっつうふえ)。鼓(こ)を打って普請(ふしん)して看よ。

【和訳】
 一日雪峰和尚大衆に示して、尽大地といえば、如何にも大きいようであるけれども、撮(つま)んで見れば米粒位しかないぞ。
 之が見えないかと言うて、其面前に抛り出された。
 漆桶(しっつう)は漆桶(うるしおけ)のことで、真黒々(まっくろぐろ)ということで、不会は合点の行かぬことで、即ち漆桶不会少しも分らぬ。
 是れ此通りえであるぞと眼の前に投げ出されても、凡情が之れを隔てて、少しも分らぬ。
 これが分らなければ、皆一緒に、鐘や太鼓で探して看よ。

 以上は、宗演68~69頁に出てくる訳です。
 時保老師は、冒頭部について、「宇宙そのものは、実に広大無辺のものである、その広大無辺なる宇宙の全体を、拙僧が三本の指で、つまみあげると、之是、此通り米粒ほどの大きさしかない。」(時保55頁)と更にかみ砕いて訳されています。

【用語】
 雪峰和尚=雪峰義存
 *六祖慧能―青原行思―石頭希遷―天皇道悟―龍譚崇信―徳山宣鑑―雪峰義存(咄堂144頁)
 普請=「普く人を請ずる」の意味。「一山の大衆に出会って貰うこと」、禅院においては、「作務」のこと(咄堂134頁)

【解釈】
 この則の理解の仕方については、二元論的な見方を離れる主旨のものとされています。
 個人的には、時保老師の説明の仕方が好きです。
 まず、「其天地は那辺にある。曰く、其天地は、それそこに、其宇宙は、これここに。」(時保33頁)「尽大地」の遍在性について述べられます。
 その上で、尽大地が米粒ほどのものしかすぎないと雪峰禅師の述べることについては、「云う勿れ雪峰禅師の神通妙用と。――決して神通でも妙用でもない、当然であり、尋常である。(略)知るべし、大に大なく、小に小なく、極小は極大に同じ、極大は極小に同じ、と云うことを。」(菅原55~56頁)と、二元的な見方を離れることについては、決してスピリチュアルなものではないと強調されます。宗演老師の「尽大地直ちに粟米粒となる」(宗演70頁)と端的なおっしゃり方もすっきりとしています。

 問題は、「恁麼は何ものぞ、尽大地か――粟米粒か」というところです(時保58頁)。
「粟米粒そのままが尽大地、尽大地そのままが粟米粒」という「同時、斉唱、不二、並行が我がお手のものにならなければ、禅の話は出来ません。」(時保58頁)。
 
(参考文献)
 宗演 釈宗演「講述碧巌録 前篇」『釈宗演全集第三巻』
 時保 菅原時保『碧巌録講演 其四』 
 咄堂 加藤咄堂『碧巌録大講座 第二巻』


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理系の人が仏道に興味を持つ要因?

 座禅会やテーラワーダの瞑想会に行くと、相当程度、理系の大学の卒業者や理系の仕事をしている人がいます。

 特に、20代から30代の人だと、IT関係の人がよくいます。

 アップル社のビル・ゲイツのように、米国のIT企業の関係者の中に、マインドフルネスへの興味を持っている人が少なくないことにも由来するのかなとも思うのですが、オウム真理教事件の際に、理系出身の幹部が相当いて、毒ガス等を製造していた実態があり、宗教とは距離感があるように思われる理系出身者が何で仏教などに興味を持ったのかがマスコミ等で疑問とされたことからすると、マインドフルネスが一般に話題になる前から、理系の人が仏道の実践に興味をもつ傾向があったのではないかと思います。
 
 最近、理系の人が仏道の実践に興味を持つ要因の一つは、理系の人には、自閉症的な傾向があり、コミュニケーション能力に難があることから、対人関係のストレスを抱きやすくなる人が多く、これを解消する手段として、仏道の実践に興味をもつ人が多いからではないかということを考えています。


「一般大学生の専攻やパーソナリティとAQとの関連をみた研究だ。英国のそれは、AQが高いと神経症傾向が強く、外向性と同調性が低かった。男子は女子よりも、また、物理や化学専攻の学生はそうでない学生よりもAQが高かった。興味深いことに、親が科学に関する仕事をしている学生は、そうでない学生よりもAQが高かった。日本では高知大学が一般学生にAQを実験したところ、文系学部よりも理系学部の学生のAQが高かった。」

(大井学「自閉症という謎に迫る 自閉症をめぐる五つの謎」金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』22頁)


自閉症発現の急増は冷戦崩壊による資本のグローバル化にともなって生じた歴史的現象の可能性がある。経済活動のグローバル化が生み出す過剰な社会的ストレスが、母体もしくは養育初期の母親に影響を与える。それが、社交が苦手で論理優勢型の素質をもつ子どもの脳のあり方を変えてしまっている(例えば脳のあり方を変えてしまっている(例えば脳内オキシントシン放出の低下)。母親のストレスから子どもの不安感や恐怖感を土台とする自閉症状が発現し、論理優勢型で非社会的な素質をカバーする余裕がない学校や職場における不利が生じ、適応が低下し症状が強化される、という経路もありうる。)」

(前掲書45頁)


 自閉症的な傾向のある人は、対人コミュニケーションを自然体で行うことが出来ないので、論理的な思考力を使って、他者と接したときに、どのように対応するのがよいのかを意識的に学習しなければならない。

 そのために、論理的な思考力が発達し、理系学部に進学する傾向が生じる。

 同時に、対人コミュニケーションに難があることから、対人関係でのトラブルが生じやすく、対人関係でのストレスが生じやすくなる。

 そこで、仏道の実践に興味を持つようになる……。

 風が吹けば桶屋が儲かる的な話ですが、最近、そんなことを考えています。




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平穏無事を目指すなら生まれる必要はない

「あらゆる煩悩を挫断して、此世界に超越することが能きれば、これが悟りの境涯であると思い、安心して座り込んでいては不可ぬ。(略)今日という実際世界へ飛び出し、自由自在の働きをするのでなければならぬ。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』42頁)


 上座仏教と禅との大きな相違点は、その活動性にあります。

 上座仏教では、貪瞋癡、すなわち、煩悩の段滅を目指します。

 しかし、禅は、違います。煩悩即菩提です。

 大乗仏教では、全てのことはあるべくしてあります。

 存在を否定されてよいものはない。

 煩悩も否定されるのではなく、制御すべきことになります。


「煩悩妄想を細めていって、最後にそれをすっかり断滅しきってしまうことが坐禅の目的ではないのです。小乗仏教では、そういう煩悩妄想を断滅しきることを涅槃、悟りとよび、これを求めて坐禅するわけですが、もしそういう悟りを人間生命の真実であるとするならば、無生命(死)こそが生命の真実だということにほかならないでしょう。しかも小乗仏教では、人間生命のもつ欲望(煩悩)が人間の苦しみの原因であるがゆえに、それを断滅して涅槃の楽を得ようとするわけですが、この場合、苦しみを解脱し、涅槃の楽を得ようと求めることは、欲望煩悩ではないでしょうか。」

(内山興正『坐禅の意味と実際・生命の実物を生きる』61頁)


仏道の実践に興味を持つ人は、うつ傾向が高く、不安障害を思わせる人も多い。

色々なことが気になってしようがない。

頭の中に思い浮かんできたことがどうも気になってしようがない。

頭に中に思い浮かんでしまったもの、すなわち、雑念が気になって仕方がないからなくしたいと思う。

しかし、雑念があって何が困るのか?

なくしたいと思うから、気になるだけの話であり、そもそも気にしなければよいだけのはなしではないのでしょうか。

 頭ではわかるけれども、どうしてもうまくいかない。
 
 だから、坐る……。

 
 煩悩を断滅し、静寂の境地に達する。

 自分の身を静物のようにする。

 しかし、平穏な、フラットなままの状態だけで、死に至るのであれば、生まれた価値はどこにあるのか?
 
 平穏な、フラットなままでよいということであれば、そもそも生まれなければよいのではないか。

 
「中国の天台宗で、「草木国土悉皆成仏」ということが言われるようになった。草木や国土、山や川までもが成仏できるというのだ。日本ではさらにそれが徹底され、「草木不成仏」と言われた。「成仏しないのか」と思われるかもしれないが、違うのだ。「草木はもともと成仏しているのだから、改めて成仏する必要はない」という意味なのである。」

(植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』183頁)

 
 仏道修行が、上座仏教のようい、迷い、悩み、苦しみがない状態を目指すというのなら、「仏」とは、迷い、悩み、苦しみがない状態であることを意味することになるでしょう。

 この世界に存在するものの中で、迷い、悩み、苦しみがないという観点で、最も優秀な存在は、山や川などといった無機物でしょう。

 無機物に人格がないことは確かですから。

 草や木にもおそらく人格はない。

 虫魚禽獣は、脳や神経があっても、常に、三昧の状態ですから、迷い、悩み、苦しみなどはない。


 狗に仏性があるのは当然です。

 山川草木に仏性があるということに違和感を抱く人もいるでしょう。

 しかし、迷い、悩み、苦しみがないという観点では、仏性があることは当然です。


 迷い、悩み、苦しみの有無という観点では、一番の劣等生が私たち人間です。

 私たちは、迷い、悩み、苦しみから逃げ出したいと思う。

 しかし、それはある意味不幸なことです。

 
 私たちの迷い、悩み、苦しみの原因は、欲望があることですが、単純な欲求であれば、虫魚禽獣にも存在します。

 しかし、私たちの欲望は複雑です。

 単に生きることを望むだけであれば、どんな生き方でもできる。

 生きることの質を問うから、質の低い生き方をせざるを得なくなると苦痛が生じる。

 それは、つまらないプライドと映ることもあるかもしれません。

 けれども、向上心の現われでもあるのです。
 
 これを、釈宗演老師は、「新陳代謝」と表現しました。


「仏教では常に煩悩を排斥して悟を求めるという様なことを申すが、之を現実的に言って見ると、唯々古いものを捨て新しいものを取るという程のことで、(略)新陳代謝する、即ち我々が茲に存在して生々として活動して居るのは、畢竟、新陳代謝作用の表現である。(略)健全なる身體であるならば、無数の細胞が新陳代謝を続けて身體の中に活動して居るのである。人類社会もそうで百年も千年も新陳代謝が行われず其儘にして行った時は、宗教も道徳も悉く退歩して仕舞う」

(釈宗演『快人快馬』184~186頁)


 より高く生きようとすること。

 そこに「煩悩即菩提」の消息があるのだと思います。

 
 平穏無事をよしとしない、より高みを目指して日々奮闘努力することが大切なのでしょう。


「如何にしても人間は努力せねばならぬのです。吾々は何處までもストラッグルせねばならぬ運命を有(も)っています。(略)吾々は智的修養もせねばならぬし、又情的修養も尊(たっと)ばねばなりません。更に意志の修養というものに、最も重きを置かねばならぬ」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』15頁)


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