瓦を磨く
「私が実践しているのは、母の頭の中の妄想や景色に付き合う方法で、意外と楽だし面白いんです。たとえば、母はいつの間にか、夢と現実とが混ざっているような状態になって、「さあ、寝ますよ」というと「ちょっと待って、赤ん坊をどうするの」といってきます。そういうときは「赤ん坊はね、さっき2階で寝ましたよ」と返します。そうすると「ああ、そうか」といって安心します。
認知症の介護は報われないことだらけです。ただ、始まってしまうと、いちいち暗くなっているひまなんかなくなって、目の前の一つひとつを解決していく毎日です。長期戦でやっていくには、イライラしても笑いと手抜きを忘れず、介護生活の中で楽しみを見つけることが大切だと思うんです。」
2019.10/31(木) 6:15配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191031-00029728-president-soci&p=4 )
「報われないことだらけ」ということですが、人生それ自体が報われないことだらけといってよいでしょう。
考えてみれば、一生懸命に人生を生きたとしても、行き着く先は「死」のみです。
どんなに苦労をしても、どんなに社会に奉仕したとしても、最後に待っているのは「死」です。
何を得ても、何を成し遂げても、最後には何も残るものはありません。
有名な禅の語録一つに、「南岳磨甎」があります。
南嶽懐譲禅師の弟子の一人の馬祖道一禅師が一生懸命坐禅をしている理由について、「仏になるため」と語ったことに対し、南嶽禅師が、落ちていた瓦を磨きながら、「鏡するのだ」を言ったというものです。
語録は、その後、馬祖禅師が「鏡にするのは無理だ」と言ったことに対し、南嶽禅師が「では聞く。坐禅をして仏になることができるのか。牛が引いている車が動かなくなったとき、牛を打つのか車を打つのか。」と語ったという話に続いていくのですが……。
摂心会等での作務の際、諸般の事情で、直日の方が方針を変えざるを得ず、それまでやっていた作業が無駄になったり、落ち葉をはきためたところに風が吹いてきて、作業をやり直すようになったときなどに、よく久参の方と「僕らがやっているのは瓦を磨くということですから♪」などと言って、この語録をネタに笑い合うのですが、人生それ自体が、瓦を磨くことと言ってよいでしょう。
どんなに一生懸命生きても、いずれ死ぬ。
中には、生きている間に、自分の生きている証を残そうとする人もいます。
芸術作品など何かを作り上げる。
仕事上の実績を上げて名を残す。
子供を作り、その子供も子供を作るという連鎖を夢想する。
けれども、どうも、宇宙論的にいうと、地球はいつか巨大化した太陽に飲み込まれるそうですし、何かの拍子に相当程度の大きさの隕石の類が落下すれば、地球それ自体、あるいは、地球上にあるものがねこそぎ消滅することも現実的に起こり得る事態でしょう。
そんなときに残るものは一切ない。
そうすると、生きるということそれ自体が、瓦を磨いて鏡にするようなことなのではないでしょうか。
理性的に考えると、そのような帰結は極めて合理的です。
……おそらく誰もが十代前後のときにこのようなことを妄想するのではないでしょうか。
そして、その妄想のことを頭から振り払いながら生きている……
しかし、何も残るものがないから、人生は無価値だということが本当に正しいことなのか、ということは改めて問うてもよいと思うのです。
人生は苦ばかりだから、価値がないのだと思ってしまうことと同じように、そのような思考様式それ自体に問題意識を持たなければならないように思います。
なぜ、瓦を磨いて鏡にするような人生ではダメなのでしょうか?
そもそも苦ばかりの人生の何が問題なのかを問うことと同じように。
私たちの人生は刹那的なものではあるけれども、その刹那的な人生が素晴らしいと感じていてはいけないのでしょうか。
「絵画というものは、そんなに長くもつものではありません。おそらく、四百年という歳月がたてば、あるいは消滅するものとも思われますけれども、しかしそれは、もちろん私にとってしあわせであります。私は、ただひたすらに純粋な気持ちでお描きしたということが、いちばん大事なことである、と思うからであります。」
(東山魁夷『日本の美を求めて』68頁)
私たちの消滅、私たちの成し遂げたことの消滅、これを幸福なことと思う。
全ては解釈の問題であり、見方を変える。
人生がむなしいことの何が問題なのか、そもそも人生がむなしいことは、当たり前のことであり、当たり前のことなど問題にする必要はないでしょう。
重要なことは、人生がむなしく、苦の連続だと思っていても、自殺をしていないこと。
人生がむなしく、苦の連続だと思っているにもかかわらず、心の中には、はっきりと生きたいという衝動があることです。
人生は価値があるから生きるのではない。
ただ、生きたいから生きる。
生きたところで、対価はない。
人生は、対価など全くなくとも、それ自体が素晴らしく、「ただ」生きるために存在する。
十代の頃、生きることがむなしいと考えて、うつうつとしていたときに、思いついたことが、こんなことでした。
自分自身に生きたいという衝動があるということ。
生きたいのだから、生きるのであるし、どうせ生きるなら楽しく生きてやればいいだろう。
そんなことを考えてやっていましたが、心がついてこないということがままありました。
坐禅に出会ってから、心がきちんとついてくるようになりました。
「そもそもこの世は理不尽にできている。
理不尽なことから逃れたいのに、逃れられないから苦しみが生じる。
誰も避ける事が出来ない苦しみなら捉え方を変える。
苦しみを「苦しい苦しい」と受けとめるのではない。
笑って受けとめる。」
(伊藤賢山「怨憎会苦」建長寺派布教師会『『怨憎会苦』を語る』9頁)
ちなみに冒頭の引用ですが
「始まってしまうと、いちいち暗くなっているひまなんかなくなって、目の前の一つひとつを解決していく毎日です。」
というところも味わい深くて好きです。
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