坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【マニア向け参考資料】圜悟克勤と大慧宗杲の「悟り」

「現在の日本の臨済禅は主として白隠禅である」
(鎌田茂雄「禅思想の形成と展開」『禅研究所紀要第2号』72頁)



とされます。
 かつては、他の流派もあったようですが、それらはほぼ途絶えてしまったようです。



白隠下が台頭するにいたると、衰退しはじめ、明治・大正・昭和という近代にはいると、その伝燈もほとんどが断法してしまい、白隠禅のみが、臨済禅であると言うような、ただ一派のみの法系のみが栄えていったのである」(鈴木省訓「古月下の動向」『印度學佛教學研究第三十六巻第一號』84頁)



 白隠禅の特徴は何かといえば、「見性体験の一事に尽きる」とされます(柳田聖山『禅と日本文化』153頁)。


 
 その手法は、宋代に確立した看話禅であり、禅の語録(公案)を、疑団を起こさせて見性しやすくするための道具とするものであり、そのため禅の語録の中でも疑団を起こすような難解なものが重視されるようになったものです。



南宋時代に生まれたのが『公案禅』(看話禅)である。これは五祖法演や圜悟克勤に萌(きざ)し、大慧宗杲に承け継がれて明確に方法論として認識されるに至った修行方法で『公案』を用いて修行者に半ば強制的に『疑団』を起こさせ、『悟り』を開かせるというものである。(略)
 公案禅においては、公案は単なる道具に過ぎず、その内容をいかに理解するかはほとんど問題にされることがない。ここで重要なことは、いかに効果的に疑団を起こすことができるかだけなのである。そのために用いられる公案は『趙州無字』などの難解なものに集中するようになり、指導者には、個性よりも伎倆の的確さが求められるようになっていった。」
(伊吹敦『禅の歴史』121頁)



 そして、白隠禅における「見性」とは、一般的に「自他不二」の体認などといわれます。



「『悟り』とは、今まで『差別』の世界しか知らなかった自我が、自我を空じて無我に徹したところで、“自他不二・物我一如”という『平等』の世界が根底にあったということに目覚めることである。」
(秋月龍珉『日常の禅語』27頁)

「自己の本性を悟るといっても、べつに今までになかった新しい知識を得ることではなく、いままで後生大事に背負い込んでその重さに耐えかねていた自己という妄想の固まりを放り出して、天地宇宙と一つに融け合った瞬間の体験が悟りだ」
(大森曹玄『参禅入門』241頁)



 しかし、白隠禅のベースになっている宋代の看話禅の原点にいた、禅門第一の書と呼ばれる『碧巌録』を編纂した圜悟克勤や、その弟子で看話禅の大成者と呼ばれる大慧宋杲の語録を見ると、そこでは「見性」について否定的に取られ、その実践の目標についても、白隠禅と異なるものであることがわかり、どちらかというと、その前の世代である唐代の南宗禅に近いものである、ということがわかります。
 すなわち、私達一人一人をとりまく日常の世界には問題がなく、悟りなどを求める態度の方に問題がある、という基本的態度には唐代の南宗禅と変化がないように思われます。



1 圜悟克勤の「悟り」



岩村康夫「圜悟克勤における現成公案について」『印度學仏教學研究第四十二巻第一号』296~297頁)によれば、次のようなことがいわれているそうです。



「圜悟克勤の(『円悟仏果禅師語録』の)示衆の中で、どのような問題がどのように解決されているかを示しているのでは、『現成公案。一糸毫も隔てず、普天匝地、是れ一箇の大解脱門なり。… 』が挙げられる。憂悲苦悩よりの解脱は人類の普遍的課題であるが、天地がそのままで一箇の大解脱門であるならば、我々はそこから解脱する必要はないので、解決されねばならない問題は当初より無かったと言える。圓悟は、この大解脱門が、日月と同じく明らかで、虚空と等しい量で、仏祖と区別が無い古今同一の正見であると説き、達磨が西より来り、文字を立てず、直に人心を指し見性成仏せしめたのは、この正見を知らず悟らず、憂悲苦悩の中に迷っている人々を導くための方便であると説いている。仏祖が旗印とした直指人心見性成仏が方便に過ぎないのであれば、その目標とされる現成公案は、禅も仏法をも超越することでなければならない。まさしく、日月と同じく歴然たる事実で、虚空と等しく普遍的で、古今同一の真理でなければならない。」



「天地がそのままで一箇の大解脱門であるならば、我々はそこから解脱する必要はない」

あるいは

「解決されねばならない問題は当初より無かった」

という点は、白隠禅のイメージからは出てきにくいところがあります。



「それ故、園悟は『大道は坦然として更に回互すること無し。… 所以に諸仏出世し祖師西来するも、実に一法の人に与うること無し。只だ諸人の休歇せんことを要す。若し実に休歇の田地に到れば、二六時中天の普く蓋うが如く地の普く擎るに似て、更に一糸毫も剰さず、亦一糸毫も欠かさず、浄裸裸赤灑灑として見成公案す』と説いている。

この示衆に拠れば、人々は見性成仏するまでもなく、ただ一切の求心を休歇すれば、浄裸裸赤灑灑たる見成公案の田地に到り、回互する(わだかまり、ふさがる) ことが無い大道に処することができるのである。仏祖は何も開示することが無く、衆生は何も悟入することが無いのである故、浄裸裸赤漉漉たる見成公案の田地とは、全く仏法と関係が無く、誰もが何時でも直面している歴然たる事実であり、我々が生活しているこの現実そのものが一点の塵垢のない世界でなければならない。」



「人々は見性成仏するまでもなく」

あるいは

「一切の求心を休歇すれば、浄裸裸赤灑灑たる見成公案の田地に到り」

との記述にも興味深いものがあります。



「そこで、圜悟は『見成公案、触処円成。… 全提単拈し、釘を斬り鉄を截り、仏を呵し祖を罵る大用大機も、猶未だ衲僧の本分の事と称せず。何ぞ況んや問いを立て答えを立て賓を立て主を立て、語に渉り言に渉り玄を説き妙を説くをや。無事に事を生じ、平地上に波瀾を起こすのみ』と説く。この示衆において、至る処で円成している事とは、衲僧の本分の事であると推測されるので、一見すると仏法中の事と思えるが、その本分の事が無事であることを暗示しているので、決して仏法では無いであろう。前記の示衆のように、休歓の田地に到ることが究極であれば、仏法すらも求めることを止めるべきであるし、その上更に、仏祖は一法も人に与える事が無い、と説いている故である。」



「仏法すらも求めることを止めるべきである」…求心やむところ即ち無事、そのままです。



「何も加えず何も減らさず、何も求めず何も得ようとせず、直ちに休歇し無事に過ごしていれば、憂悲苦悩をもたらす問題の起こりようが無く、我々が日常に生活し平生接している現実は、そっくりそのまま一箇の大解脱門になるであろう。」



「我々が日常に生活し平生接している現実は、そっくりそのまま一箇の大解脱門になる」…これを徹底すると、馬祖禅のような無修行主義に至り得るものであり、白隠禅と全く違うという感じがします。



2 大慧宗杲の「悟り」



「宋代以降の臨済宗の特色となる見性を期す禅と、大慧の看話禅は、次のようにいささか趣きが違うところがある。(略)大慧は見性ということをほとんど言わない。これは、大慧の得悟の表現が、見性体験の表現とやや異なることと関係しよう。(略)、大慧は入室参禅という個人指導よりは、普説や上堂(いずれも「講義」の類)で指導し、遠方の人々には書簡で指導していた。」
(「大慧宗杲への評価」368~369頁)
http://iriz.hanazono.ac.jp/pdf/st03/st03_0205.pdf



 特に、興味深い点は、「大慧の得悟の表現が、見性体験の表現とやや異なる」とされる点ですが、それはこのようなところかと思われます。



「具体的な参究方法については、『大慧書』『大慧法語』に詳しいが、『工夫(修行のやり方)とは、世間の尽労(煩わしい物事)に思いをめぐらしている心を、〔雲門の〕『乾屎橛』〔という話頭〕の上に振り向けて、土や木でつくった偶人(人形)のように、情識(迷いの心)がはたらかないようにさせることだ(略)』(略)とあるように、散乱している意識を、与えられた特定の話頭に集中させることが要点とされる。大慧は言う、

ただ、日頃、〔あれこれ〕疑問が起こった所で、〔話頭を思い起こして〕つねに奮起させ、つねに目覚めさせなさい。たとえば、ある僧が雲門禅師に質問した、『仏とは何ですか』。雲門は言った、『乾屎橛』と。ただ、他人のことを疑い、仏や祖師のことを疑い、〔なぜ〕生まれて死ぬのかと疑っている心を、『乾屎橛』の上に移しかえて看てみなさい。〔話頭をいつも〕看つづけて、いま述べた〔そういった〕疑いが、にわかに『乾屎橛』の上で消息が途絶えたら、〔そこが〕とりもなおさず一番最後のところ(=悟り)なのだ。」
(野口善敬「後世における大慧宗杲の評価」『花園大学国際禅学研究所論叢第八号』2~3頁)



 大慧の看話禅では、「世間の尽労に思いをめぐらしている心」、「情識(迷いの心)」を「働かせないようにさせる」、「途絶え」させるものであり、このような「迷いの心」の解消を「悟り」であるとするものといえます。

 そして、ここでいう「迷いの心」とは、「仏とは何ですか」と問う心、「他人のことを疑い、仏や祖師のことを疑い、〔なぜ〕生まれて死ぬのかと疑っている心」です。

 仏や生死を考える心を妄想とし、これを解消するという点では、唐代の南宗禅と同じで、その方法論として、公案を使って注意を違うところにそらしていくという方法を採るということになろうかと思います。

 同じ看話禅でも、白隠禅とは異質であることがわかります。





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