坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

直指人心、見性成仏

「青年は老師の目をまっすぐに見つめて、重ねて尋ねた。

『僕とは何ですか』

 老師は、そこで言われた。

『君は今日ただ今から自分のことを勘定に入れないで、他人のために一所懸命に働いてみよ。そうして、他人のために働いた結果、自分が『よかった、幸せだった』と感じるような自分が出てきたら、私はそれがほんとうの自己だと思うがなあ』」



(秋月龍珉『日常の禅語』191頁)





元々「見性」という言葉は嫌いでした。

通常、自他不二や不二不一の体認を見性と言いますが、そのような精神的満足を求めることは、未来における幸福を目指すものであり、未来における幸福を目指すことによる不幸を防ぐという仏教のアイディアと矛盾する上、所詮は異常心理にすぎないものであり、適切な認識を得たり、慈悲の実践をすることとは結びつかないと思ったからです。





「私は若い時に徹底的に坐禅修行をしようと思っていましたので、臨済の道場へ行っておりました。あそこでは全員が、なんとかして見性しようという一つの雰囲気に、ひたりこんでしまっていました。そして見性するためには、自分の身体なんかはどうなってもいいというような熱気に燃えていました。つまり見性のためには手段を選ばぬといった調子でした。後から考えてみますと、これは別に考えなくともわかることですが、本人は真剣な求道人としてどうしても自分は悟りたい、そのためには自分はどうなってもよいと、本当にそのように思ってしまうものです。然し、結局は、それはただ自分のものが欲しいということだったのです。つまり満足感の追求ということだったのです。それでどうしても安心決定したいというのでした。安心決定が欲しいというのは、実は自己満足の追求に外なりません。」

(酒井得元「永平広録について」7~8頁)





よく自利利他などと言われますが、自利の次元において重要なことはーー実際には、利他においても同じことですがーー、私達に特別なものはいらないということです。

特別な「真理」や特別な「救い」などはいらない。

なぜなら、そんなものがなくてもきちんと生きているのだから!



だから、仏教はなく、禅もありません。

不立文字です。

語った時点で、それは「特別なもの」になってしまうからです。

「見性」しようとすることも同じことです。

何か「特別なもの」を未来に求めること。

道元禅師が見性を求めることを否定したのも当然です。



理念の問題だけではなく、生理学的にも、いわゆる見性体験を求めることは疑問です。




坐禅(只管打坐)の主要な生理学的効果の機序は「呼吸回数の減少→血中二酸化炭素濃度の上昇→セロトニンの分泌→扁桃体の活動低下→不安感の解消・ま性の回復」と思料されますが(高田明和『一日10分の坐禅入門』(142~143頁)、金沢大学「感情の高ぶりによって脱力発作が引き起こされる神経メカニズムを解明!」(※1))、扁桃体の活動低下は統合失調症の特徴であり(放射線医学総合研究所「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」(※2))、その症状の一つである自分と外界の境界が曖昧になる「自我意識障害」(杉原和明監修『はじめて学ぶ人の臨床心理学』221頁)が見性体験(生理学的には、極端に扁桃体の活動が低下し、一時的に統合失調症の自我意識障害になるのではないかと思います。)における「自他不二」の感覚であると思料されます。

したがって、見性体験を目指すことが本当に望ましいかは慎重な工夫が必要であると考えています。


(※1)

https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/04/170411.pdf

(※2)

https://www.jst.go.jp/pr/announ ce/20100224/index.html



以上のようなことから、私は、「見性」という言葉が嫌いでした。



けれど、最近少し変わってきたところがあります。



「見性体験」などというと何かスピリチュアルな感じがして気持ち悪いのですが、少し違う捉え方が、あるのではないかと考えてきています。



私は、世界を愛している。

そういう心を持っている存在である。


酒井老師などは、仏教や禅が語られる際に出てくる「心」を世界一般まで拡げるようにおっしゃいますが、素直に精神世界的な意味の「心」でよいように思っています。




「全てが真実であって、真実以外の何物もあり得なかったのです。この事実が心ということであったのです。したがって心は決して精神的なものでも、意識的なものでもなかったのです。つまり、この宇宙全体の真実が心であったのです。」

(酒井得元「永平広録について」23頁)




このような考え方も好ましいものとは思っています。

時間と空間を認識の枠組みと捉えるカント哲学、主観によって初めて客観的世界が区分されるとする構造主義

世界と自己とが関連しあった一体化したものであるということは、学生の頃、食事、排泄と、肉体との関係を考えて、納得していました。

山口那津男先生は、この点を丁寧に論じられています。



「自分が生きているのは、言うまでもなく色々な食物を摂取することによってである。たとえば数時間前に食べたビフテキが消化器官によって吸収され栄養となって体内をめぐり、身体のさまざまな細胞を構成している。その時、自分の身体はどこまでが自分の身体であり、どこからが牛なのであろうか。われわれはもちろんビフテキ以外にもさまざまなものを食べる。人間は全ゆる生物の中で最大の雑食動物であると言われる。事実人間は、動物や植物はおろか、石油のような鉱物までも食用に供する。要するに、人間はあらゆるものを食することによって、彼の身体のあらゆる隅々までそれらのものによって構成されつくしている。自分の身体のどの部分をとってみても、これはもともと自分のものだ、と言いうるものは一つもない。自分の身体はすべて自分以外のものででき上っている。」

(山田邦男「自己存在についての一考察一禅の立場に即してー」『人間科学論集一五号』4頁) 




世界は客観的に区分されているのではなく、意識によって区分されているように見えるだけであり、心と世界を分けるものはなく、心は世界の構成要素にすぎない。

こんな世界観も好ましく思います。



けれど、私は、心を通してしか世界と接することができない。

心をまず第一のものとして世界に接せざるを得ない。

世界は一つであると同時にそこには個物が存在するものとされ、私も、世界の中に、この意識と共に現れ出てしまったのです。



人間の悩み、苦しみ、迷いは、世界に対する個別的な「心」があるから生じます。

だから、何らかの形で「心」を否定する考え方もあります。

上座仏教はその典型でしょう。

しかし、私達が、悩み、苦しみ、迷う理由は何でしょうか?



私達の悩み、苦しみ、迷いの主要な原因は人間関係です。

自己の利益と他者の利益との関係がうまく調整できないとき、私達は悩み、苦しみ、迷います。

しかし、このことは、私達が他者へ配慮する存在であることの証でもあります。

他者だけではありません。

そもそもが私たちは世界を愛しているのです。

世界の存在は不確かで、夢だといってもよいはずなのに、私達は、世界を「現実化」して、その現実性を尊重して生きています。

人生を送るということは、世界を愛していることです。



時に、私たちは、世界や人生に疑問を持ちます。

なぜ、こんなに苦しいのか、何もいいことはないし、いいと思うようなことがあったとしてもはかなく消えるものであるし、生きることに価値などないのではないのか?

世界や人生が与えてくれないことに疑問を持つことがあります。

しかし、このようなものは問いを発すること自体が一種の転倒なのです。



私たちの目の前にある世界は不確かなものであり、私たちが、自分の意志で確かなものとしているのです。

私たちの意志、すなわち、愛が世界を現実化させているのであり、私たちが世界に与えるのであって、世界から与えられるのではない。

私たちは、世界を愛し、現実化するものであり、世界に対し、庭師のように愛情を注ぐ存在という意味で世界の主というべきものです。

禅門において、随処に主となるとはこのようなものでしょう。


世界から与えられることを求めてしまう理由の一つは、私たちは、それぞれの肉体を通して世界に与えるしかなく、世界に与えるためには、肉体が必要であって、肉体の保存のために、肉体に利益を帰属させる必要があることに由来するのではないかと思います。



「我々は先ず體中の小さな蟲一匹として、即ち社会の一員として此健康を保ち、そうして常に怠らずして努めて以て病気に打勝ち、常に健康にならなければならぬ。健康になったならば、更に一層勇気を鼓して働こうというのが、それが一種の宗教的信仰であろうと思う。」

(釈宗演『快人快馬』185~186頁)



「社会のために勉強し、社会のために生きる、道のために飯を食い、道のために茶を飲むというように、道のためにするのでなければならぬ。道のために尽さねばならん身体だから、お互い不養生するわけに行かぬのである。自分のだけのためならどうでもよい。」

(沢木興道『禅談』313頁)



このような愛する目的での個々の肉体への利益の蓄積を目指していたはずなのに、いつしか、手段と目的を入れ違えてしまって、肉体への蓄積が目的となってしまったのが利己主義の不幸なのだと思います。


何やら官僚制の不幸に近いものがあります。



「官僚制は,組織の目標達成を助けるために発生する。しかし,しばしば組織の職員は,組織の利益とは異なる彼ら自身の利益を有するようになる。このような職員は,官僚制の役割を堕落させ,彼・彼女ら自身の役目と身分を高めるのである。」

(ロバート・D・サック(林 修平、山﨑 孝史訳)「人間の領域性―その理論と歴史 第4 章 カトリック教会」『空間・社会・地理思想 11号』111頁)





私達は、生まれ落ちた直後、その親に子育てをする喜びを与え、十代前後頃までは、純粋な部分が残るのですが、その多くは、自己への蓄積することが重要なものであるという観念を抱きがちになります。

そして、世界を愛するために産まれ、現に世界を愛しているのだということを忘れていく。



見性とは、私達が世界を愛しているということに気づくことなのではないかと思います。



私達が生きている、その当然の前提が、夢であるといってもよいような不確かな世界を現実であるものとして、尊重して愛することを前提として成り立つものであることに気づくこと。

生きている以上、目の前に展開する世界を愛しているのだということに気づくこと。



余りこんな考え方に出会ったことはありませんが、見性成仏について、「悟りとはその清らかな本性を認識し自覚することにある」という捉え方である(石井清純『禅問答入門』22頁)という典型的な定義にも整合的であると思います。



生きている私達にとって生きていることは当然のことであって、生きていることが世界を愛していることを前提としている。

「生きている前提」が「本性」としてあることであり、その「本性」は、「愛している」、すなわち、「清らかな」もの。

その本性は、生きている以上、当然にあるものであって、後天的に獲得されるものではない。

今、実際にあるものとして自覚すること。



与えられるのではない、与える存在であるとの自覚をもつ。





澤木興道老師が



「サトリとは損すること。マヨイとは得すること’

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』142頁)





とおっしゃるのも同じ消息でしょう。



私達が愛する存在であるという自覚を持つ=見性することは、そのまま、愛する存在=仏であることおを前提とします、すなわち、「成仏」です。





「我等はもと仏とちっとも違わぬ凡てを救うに足るべき本能力を持っておる。法華に、若有聞法者無一不成仏とある。成仏ならざるものはないと読めば、本来人(ほんらいにん)ということになる。成仏せざるはなしと読めば、後天性になる。仏になるのではない。本来仏であるので、知らぬ者が知らぬまでじゃ。」

(飯田欓隠『通俗禅学読本』2~3頁)





「凡てを救うに足るべき本能力」こそが愛する心ということに当たると思います。



「直指人心」とは、このような「愛している心」を示すものです。

とはいえ、「愛する心がある」と言うだけで、実際に、私利私欲丸出しで生きているのでは、説得力がありませんし、何よりも、自分自身にとって意味がない。

言葉は、指差すものにすぎないのですから、「愛している」ことを自覚して、「愛する人生を実際に送ること」といってよいのだと思います。



愛するといっても、私達は、それぞれが生まれいでた肉体を使って愛するのですから、できることには限界があります。

そこには、当然のことながら優先順位があります。

それぞれの肉体も、世界の一部であり、自己の肉体の保全を図ることがまず第一でありましょう。

ですから、利己主義者のようなあり方も、世界の愛し方の一つの現れです。

また、どんなに博愛主義的な人でも、何をするにせよ、まず、自分の体を養生しなければならないのですから、利己主義的な面のない人はいません。

何よりも、誰かに、世界にやさしくしたいというのも自らの欲望に従ってやる利己主義の現れです。

誰しもがどこかでは利己主義者であり、それを非難することはできません。

禅門でいうところの是非言う人は之是非の人というものです。

自覚がある者としてできることは、世界全体があるものとして生きている以上、世界全体に対する愛があることを示す生き方をして、純粋利己主義者というべき人たちにより幸福な……より利己主義に合致する!……生き方を示すことです。



生きている以上は、愛しているのであり、特別な教義や教理はいりません。

愛するあり方は、言葉で語っても伝わりません。

先に述べたとおり、語る本人が俗な意味で私利私欲の生活を送っているのなら、説得力がないからです。

逆に、アフガニスタンで医師として活動したり、灌漑事業などに携わっていた中村哲氏などは、その活動それ自体が望ましい生き方を語り、人の感動を、同調を呼びます。

ですから、伝える上では、言葉で語る必要はありません。

これらのことを称して、不立文字、教外別伝というのでしょう。





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