座禅普及

主旨は慈悲。行は座禅。

立ち上がるということ

 坐禅をするにあたって、大切なことの一つは、「立ち上がる」ことだと思っています。

 坐禅をしている人の中では、坐禅を長く続けていることができるようになることがよいことだと思っているような人も多いです。
 しかし、本当にそうなのかな、とも思います。
 坐禅が長く坐れば坐るほどよいのであれば、坐死を目指すのがよいということになるはずです。
 また、禅においては、「初心」が重視されます。 「初心」という観点からすれば、坐禅慣れをすることが本当によいのか、という気がするのです。

”日本語では初心といいますが、それは「初めての人の心(ビギナーズ・マインド)」という意味です。修行の目的は、この初めての心、そのままを保つことです。(略)
 私たちの「初心」は、その中に、すべてを含んでいます。それは、いつも豊かで、それ自体で満ち足りています。この、それ自体で満ち足りている心の状態を失ってはいけません。これは心を閉ざしてしまう、という意味ではありません。そうではなく、空(エンプティ)の心、それゆえ、つねにどんなことも受けいれる用意がある心です。心が空であるとき、それはどんなことも受けいれる、どんなことにも開かれている、という状態にあります。初心者の心には多くの可能性があります。しかし専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません。”
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』31~32頁)

 坐禅などの仏道の実践は、悩み、苦しみ、迷いといったマイナスの感覚に対処したいと思って始めるものです。
 しかし、私たちの人生は、苦しみから逃れるためにあるのではない。
 よい、悪いの価値観は、虚蒙のものです。 
 ですから、このように生きなければいけないということはない。
 好きなように生きていけばよい。
 どのように生きるべきかなどという問いは馬鹿げています。

 とはいえ、客観的によい生き方はないとはいえ、自分自身にとって、どのような生き方が満足のいく生き方なのか、という問題はあります。
 仏道修行によって、ある程度の境涯に達した方ですら、このような問題を抱えていたりもします。

ミャンマーでは瞑想の実践を中心として多くのことを学ぶことができ、おかげさまで、私自身の実存的な関心として生死の問題に悩むことは、もうありません。
 ただ、自分にとっての生死の問題(己の中の有限と無限の問題)に、いちおうのけりがついたとしても、その上でこの有限の生をどのように生きるべきかという問題は残ります。”
( 藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』4~5頁・魚川発言) 
 
 私自身は、大乗仏教的な発想があっているみたいで
「働いて、愛するために生きている」
「生きる価値は、周囲の存在を支えるところにある」
と思っています。
 禅の修行をする目的は、衆生済度であるということにも非常に納得がいくのです。
 そうすると、坐禅をするということは何なのか、禅の修行として行われている行動それ自体はどのようなことなのかということになります。
 
 私は、以前は、坐禅それ自体が独立した価値がある、という見方を重視していました。 
 「坐禅は無功徳」ということを徹底すればそうなるように思います。
 坐禅の価値は、他の価値に依存するのではない。
 坐禅以外の別の目的を実現するという他の価値に依存して価値があるのではない。
 
 けれども、しばらく前から、坐禅は、独立した価値があるだけではなく、もっと別の価値を実現するものではないか、という観点も、大切に感じています。
 坐禅それ自体に価値があり、坐禅をすることが人生それ自体なのであれば、ずっと坐禅をして坐死すべきであるということが正しいことになります。
 未だに、死ぬときには、許されるなら、坐禅をしながら死にたいとは思っています。
 とはいえ、坐禅をするだけに生きて、死ぬことは、私としては、納得がいかない。
 私の肉体は拒否したい。
 
 私を含めたすべての存在は支えあっている。
 生きるということは支えることであり、支えることに人生の充実があると感じる。
 
”〈空〉というものは無や断滅ではなくて、肯定と否定、有と無、常住と断滅というような二つのものの対立を離れたものである。したがって空とは、あらゆる事物の依存関係(relationlity)にほかならない。”
中村元『龍樹』17頁)

 坐禅をしながら死ぬということも、そうすれば、坐禅をすることで死を受け入れることができるということで、坐禅の素晴らしさをほかの人に伝える一助になるのではないかと思うから。
 
 そう考えると、坐禅などの禅の修行プロパーとして行われることは、ほかの人を支える利他行為をする精神を作るための準備にすぎない。
 当然、禅の修行プロパーのことではなく、重要なことは、実社会生活において、利他行為にいそしむこと。
 重要なことは、坐禅をし続けることではなくて、立ち上がることなのだと思う。
 立ち上がり、現実の問題と格闘することが大切なのだと思う。
 そう考えると、次のような鈴木俊隆老師の言葉が強く響いてくる。

”生きるということは、問題の中で生きることです。”
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』163頁)
 
 とはいえ、頑張って疲れてしまうと、休みたくなります。
 そして、回復を待つ。
 坐禅は、疲れきった心を癒すリラクゼーションであるのですが、単純に楽になるのではなく、やっていれば、そのうち立ち上がり動きたくなることが重要なのではないかと思っています。
 単なるリラクゼーションであれば、ふとんにくるまるようなものでもいいでしょう。 
 しかし、気持ちよすぎるものには、立ち上がる理由がない。
 私たちが、本当に生きる、ほかの存在を支えるためには立ち上がって、現実の問題と格闘しなければならない。
 坐禅は、立ち上がりたくなる欲求を人に呼び起こさせることによって、人間という生物の本性が活発に活動させるものであることを想起させるものなのだと思います。 

”禅の修行とは、私たちの本物の姿(本性)の、直接の表現なのです。(略)
人間の本性というのは活発な働きであり、それは同時にすべてのものの本性なのです。”
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』89頁)

 そうすると、私たちは、漫然と坐禅をし続けていてはならない。
 それは、実社会生活において、充実して生きる、利他行為に尽くすための準備であり、坐禅に耽溺してはならないのです。

”多くの人が好奇心から坐禅を始めますが、それでは自分自身を忙しくしてしまいます。修行によって、より悪い状態になるなど、ばかげています。(略)あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校をやめてしまし、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。”
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』110頁)

 鈴木俊隆老師のこの言葉は、坐禅に自足し切ることに対する警鐘のようにおもいます。
 
 坐禅において立ち上がることの大切さを説く、老師の方はなかなかいないのですが、次の相国派管長の有馬頼底師の言葉には勇気付けられます。

”落ち込んでいる。そこから回復し、健康な心、前向きな気持ちを取り戻すには、どうすればいいのか。(略)
 不思議に思うかもしれませんが、取り戻そうと思わないこと(略)
 何となくしなくてはと焦ることで、だんだん深みにはまっていくんです。(略)
 ただでさえ気力が果てているのに、さらに無駄な労力を使うものだから、余計に弱る。そうして完全に鬱にはまり込んでしまうのです。
 そこから這い上がるには、落ち込んだその状態のまま、じっとしていることです。人間というのは、面白い生き物で、いつまでもじっとしていられないようにできているのです。諸行無常、日々は刻々と動いていく。その中で自分だけ動かずにいるというのは、それはそれで、けっこう苦痛なものなんですよ。ですからじっとし続けていれば、必ず動きたくなってくるはずです。”
(有馬頼底『無の道を生きるーー禅の辻説法』184
~185頁)

 その上で、改めて先に上げた鈴木俊隆老師の

”禅の修行とは、私たちの本物の姿(本性)の、直接の表現なのです。(略)
人間の本性というのは活発な働きであり、それは同時にすべてのものの本性なのです。”

の言葉を見てみると、また味わい深いものを感じるのです。

 私は、今日も坐禅をする。
 自分を鼓舞して立ち上がるために。