坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【参考資料】「苦」ですけれど、何か?

「すべてが無常であることに、疑いはない――だからといって、思い煩うことがあるだろうか?」(リチャード・ゴンブリッチ(浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』390頁) 四連休に、積ん読状態だったリチャード・ゴンブリッチの『ブッダの考えたこと』を読了…

呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(4)

坐禅の生理学的な効果として、既に呼吸回数の減少による「扁桃体活動の低下」について触れました。 ○扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1) - 坐禅普及 ○扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2) - 坐禅普及 本稿では、坐禅の際の呼…

応病与薬の方便(2)

2 現実的効果の重視 仏教を病に対する薬であると捉えると、病を現実的に治癒することができるかどうかが仏教の教義やその実践において重要な視点ということになります。仏教は、その歴史の中で多様に変容してきましたが、原始的な段階においても、このよう…

応病与薬の方便(1)

私は、次の言葉が仏教の教義とその実践の本質を、よく言い表したものだと思っています。 「『浄土宗』と申しますと、ややもすると、死後のことばかり言う、死後往生、死後往生という、そんなことを言って何になるのだというおしかりを受けることがありますが…

扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)

前回の記事で取り上げたとおり、坐禅によるプラス面の生理学的効果の主要なものは、扁桃体の過剰な活動を低下させ、うつ傾向や不安傾向を解消することにあるものと思われます。しかし、扁桃体の活動の低下には次に述べるとおり弊害もあり、扁桃体の活動を低…

扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)

1 扁桃体とは? 坐禅のときのようにゆっくりとした呼吸をすると、血中二酸化炭素濃度が上昇し、セロトニンが分泌され、その結果、うつや不安感が解消、軽減することが判明しているとされています。 これが坐禅の効果のうち、有益な効果の主要なものではない…

雑念あってよし(第2版)

◯雑念がでてきて困る座禅会に参加すると、座禅のときに、「雑念がなかなか収まらなくて、困る」という人がよくいます。座禅は雑念や煩悩を絶つものだ、と思っていることから、「雑念が出て来るのは困ることだ」と思ってしまうのかな、と思います。しかし、仏…

【マニア向け参考資料】圜悟克勤と大慧宗杲の「悟り」

「現在の日本の臨済禅は主として白隠禅である」 (鎌田茂雄「禅思想の形成と展開」『禅研究所紀要第2号』72頁) とされます。 かつては、他の流派もあったようですが、それらはほぼ途絶えてしまったようです。 「白隠下が台頭するにいたると、衰退しはじ…

慈悲の実践方法

1 はじめに このブログを読んでいる方から、「現実の社会関係や家族関係の中での喜捨を含めた慈悲の実践の仕方」を知りたいとのお話がありました。どんな構成で説明したらよいかで少し悩みましたが、一番大切なことは、私たちの生きる根本のところに、「現…

文明の発展と仏教の起源

「あらゆる歴史家は、インドにおける都市化の第二期の初期において、仏教が興隆したことに同意している。(略)この都市化は、農産物の余剰生産に伴って生じたのに違いなく、社会と経済の根本的変化へと繋がった。比較的大きな都市(略)は、宮廷と貴族、お…

所有する不幸

「平和はただ貧においてのみ可能である」 (鈴木大拙『禅』62頁) お付き合いのあった人との関係から、一時期、仏教系の宗教団体に所属していたことがありました。それまで宗教と関わることがなかったことから、それまで知ることのなかったいつかの苦い発…

「衆生本来佛也」なら、なぜ、禅の修行をするのか?

「以前、私が禅を修行しなくては、佛道の真実はわからないとだけ説いていた頃、郷里へ帰り親戚や友達の親しい人々をまじえた聴衆を相手に、説教をしましたら、年老いた従兄が、佛道のありがたいことはわかったが、私等にはそうした修行はとてもできない。本…

脳生理学的観点から見た坐禅と禅的人格との矛盾

「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から禅宗の坊さんにずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき≪これは並以上に悪い人間じゃないか≫と思うことが多かったです。」(司馬遼太郎『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』65頁) 禅は禅的人格を有する…

問わない態度

仏道の教義やその特有な実践は、応病与薬の方便であり、その時その場その人限りの親切にすぎません。とはいえ、語る言葉に一種の普遍性があるように見えなければ、接得はできませんから、発せられた言葉は、その時その場その人限りを超えて普遍性があるよう…

初心

「私が理解する仏教は『無条件に真理のようなものを提出することはできない』ということが根本にあります。だから『真理』とか『悟り』ということを無防備にいう人は信用できないんですよ。」 (南直哉発言。南直哉・島田裕巳「南直哉 坊主も知らない仏教の…

【資料】碧巌録第三十七則『盤山三界無法』

0 自家製の垂示「三界無法、何れの処にか心を求めん。」これが本則です。 前段の「三界」とは、世界。「法」は、世界の中の具体的な事物。具体的な事物が「ない」ということ。問題は、「ない」ということの意味です。実際には、私たちの目の前には、具体的…

禅の修行は「禅的人格」を生み出せるか。

「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらる時、そしてまた雨が悪者善者のわかちなくこれにひとしく降り注ぎ、あるいは趙…

【資料】碧巌録第三十九則『雲門花薬欄』

*多くの公案と同様、「衆生本来仏也」を示すものですが、「途中にあって家舎を離れず」の理解に関する点が興味深いものです。 1 表題 「雲門花薬欄」(宗演376頁、菅原1頁、井上400頁) 「雲門金毛獅子」(加藤245頁)2 垂示 (1)訓読 「垂示…

脳科学論から見た「煩悩即菩提」

「美容に興味のある女性であれば、ボトックスをご存知でしょう。肌の老化を防ぐとされる魔法の物質です。 実際には、ボトックスは食中毒の原因として知られるボツリヌス菌の毒素です。この食中毒は、症状が軽微な場合は四肢の麻痺ですみますが、ひどい場合は…

【参考資料】正念相続とは随処に主となることである

禅に興味を持ってから、「正念相続」という言葉を耳にするようになりました。正直に白状すると、長いことその意味がはっきりつかめませんでした。禅関係の本や久参の方の話でよくでてくるのは、坐禅の時の状態を日常生活に及ぼすことであるということでした…

【参考資料】坐禅修行の非本質性

先日、臨済宗系の勉強会に参加したところ、久参の方から、坐禅をしなくても、見性することはあるのかといった質問が講師の方に対してされる場面を目にしました。そもそも見性やら悟りやらにこだわるのもどうかと思うのですが、見性や悟りという観点からも、…

禅=現実=大拙の“something”

「禅は、五官のはたらきも知的作用も道徳も無視しない。美しいものは美しく、善いものは善く、真なるものは真である。禅は、われわれが眼前の事物を評価するために普通下す判断に反対はしない。禅を形成するものは、これらの判断の一切に、更に禅が附け加へ…

隠山派と卓州派との室内の相違

「白隠の会下に四十余人の豪傑があったが、其中(そのうち)東嶺(とうれい)遂翁(すいおう)の二師が其(その)上足(じょうそく)であった。(略)遂翁の法嗣(ほっす)は、(略)春叢(しゅんそう)と云うので断絶してしまった。所が東嶺和尚の方脈は益…

釈宗演老師の見ていたもの

「わたしは宗演老師について一週間ばかりで見性(最初の公案が透ること)したですね。(略)入室(師匠の室に入って問答すること)すれば、公案はどんどん透る。それはゆるいもので、坐禅などは短いほうがいいと言って、三年ぐらいでどんどん上げてしまって…

慈悲の行じ方

「最後に軽く触れたいのは、私が好んで日本の仏教徒の『悪い癖』と言うことです。正直に言って、私はそれを聞くたびに、少し憤慨します。すなわち、利他の話をするときに日本の仏教徒が、ほとんど例外なしに、利他を教化と同一視するということです。そうす…

あるかどうかわからないことは、ないものとして行動するしかない

「ゴーダマ・ブッダによると、当時の思想界で行われていた種々の哲学説、宗教説は、いずれも相対的、一方的であり、結局解決し得ない形而上学的問題について論争を行っているために、確執に陥り、真理を見失っているのです。(略)イエスともノーとも答えな…

煩悩即菩提

「本来の仏教では、『愛』という語は、いつも『憎』とウラハラの意味をもつ語として用いられ、あまりよい意味では使われなかった。『愛』は常に、その裏に『憎しみ』を秘めているものとして、仏教では否定的に見られてきた。そのよい例が、釈尊の『四諦』の…

直指人心、見性成仏

「青年は老師の目をまっすぐに見つめて、重ねて尋ねた。 『僕とは何ですか』 老師は、そこで言われた。 『君は今日ただ今から自分のことを勘定に入れないで、他人のために一所懸命に働いてみよ。そうして、他人のために働いた結果、自分が『よかった、幸せだ…

不確かな世界を愛している

「(形而上学的な問題について)釈尊は答えられないときには、沈黙を守る。そしてその沈黙に対する執拗な追及があり、まれに釈尊は適切な比喩を、相手または弟子に示す。(略) 『(略)世界の常・無常などをいつまでも求める人は、解答の得られないあいだに…

【参考資料】“現に存在する”苦しみには問題がない

「明治から昭和にかけて約半世紀近く建長寺派の管長をつとめた菅原時保(じほう)老師は『日面仏,月面仏,訳すれば,”ああ死にともない,死にともない”』と提唱されている。 近代の傑物であった飯田欓隠老師は,痔の手術をして,「痛い痛い。何にも無いとい…