坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

釈宗演老師の見ていたもの

「わたしは宗演老師について一週間ばかりで見性(最初の公案が透ること)したですね。(略)入室(師匠の室に入って問答すること)すれば、公案はどんどん透る。それはゆるいもので、坐禅などは短いほうがいいと言って、三年ぐらいでどんどん上げてしまって、後は学問をやれ学問をやれというふうで、学問のできん者は目もかけんというようじゃった。(略)あんまり早悟りさしてくれるものだから、気にいらなかった。」

(加藤耕山発言。秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山 加藤耕山老師随聞記』21頁)



釈宗演老師の本を色々読み散らかしているのですが、読んでいて思うことは、禅や仏教以外のものにも開かれた記述をしているものが多いことです。

特に、禅海一瀾講話には、そのような記述が多い。



「凡そ真理には契合と特殊の二方面があるのである。仏の慈悲心、耶蘇の博愛皆な同じである。『観無量寿経』にある如く、『仏心とは大慈悲心是れ』で一言に尽して居る〔諸仏心者大慈悲是〕。また耶蘇教で、ゴッド・イズ・ラブ、ラブ・イズ・ゴッドというも同じ意味だ。宗教としての立場は同じである。」

(釈宗演『禅海一瀾講話』49頁)

「『吾が禅海、波瀾洪大、嫌う底の法無く、又た着するの底の法無し』
吾が『禅海』は『波瀾洪大』だから、何一つ嫌う底のことなし。仏も嫌わず、魔も嫌わず、天上界も嫌わず、同時に地獄界も嫌わず、また、一切の物を嫌わず、即ち清濁併せ呑むという有り様。そんならばと言って、同時にまたなにかに執着するかと言えばそうではない。どういうことがあっても、それに執着することがない。(略)

孔子教でも、老子教でも、皆な籠って居る。今ならば、耶蘇教でも、マホメット教でも、矢張り仏教の或る点にはその通りある。道理はこちらにあるから、皆兼て我が波瀾中にある。」

(釈宗演『禅海一瀾講話』298頁)

「蓋し大道を学ぶ者、大士の心を以て心と為さば、則ち其の差わざるに庶(ちか)からん

苟も『大道』を学ぼうと言えば、(略)傅大士(*古代中国の智者。仏教の袈裟、老子教の冠、儒教の沓を身に付けていたとされる)の心を以て我が心としたならば、稍や道に入ることが出来るだろう。中々人間という者はそいいう風にいけぬもので、初めから名に依って大いにそこを隔を為す。仏者は儒者を嫌い、儒者は仏者を嫌う。耶蘇教者は仏教者を嫌い、仏教者は耶蘇教舎を嫌う。名に依って初めから城壁を築いてくる。元来、仏が現れぬ前、耶蘇が生れざる以前、孔子の生れざる以前、老子の生れざる以前、その時には道がなかったかと言えばそうでもない。この道なるものは、神が生んだのでも仏が生んだのでもない。『大道』というものは昔から存在して居る。無限の時間に亘る無限の空間に渉って居る。けれども多くは直ちに名に捕らわれて仕舞う。

(釈宗演『禅海一瀾講話』301頁)

※傅大士=古代中国の智者。仏教の袈裟、老子教の冠、儒教の沓を身に付けていたとされる


あらゆる宗教、キリスト教イスラム教ですらも、同根であり、嫌うものではないとしてしまう。

分別を虚構とする禅門として気持ちのよいものです。

とはいえ、横田南嶺老師は、キリスト教に対する好意的な評価が釈宗演老師とその師である今北洪川老師との顕著な相違であるとおっしゃいます。

 

「驚くべきことは、洪川老師にとっては、『天、仏、性、明徳、菩提、至誠、真如』というようにすべて仏教や儒教の言葉で表現されていたものが、宗演老師に至っては、キリスト教の『ゴッド』という言葉まで出ていることである。

鈴木大拙がその著『激動期明治の高僧今北洪川』(『新版鈴木大拙禅選集』10、一九九二年、春秋社)において、当時の仏教者がキリスト教邪教としていて、(略)洪川老師にとっては、神儒仏の一致は説いても、キリスト教までは念頭になかったと思われる。

しかし宗演老師は、若くして慶應義塾に学んで、当時の最先端の学問に触れ、またシカゴの万国宗教会議に参加して、そこで世界の宗教者に接して、従来の仏教者の半期リストの立場から大きく変革されている。もはや、キリスト教と相対していては、真の平和の実現は期しがたいと思われたのではないかと察する。(略)

洪川老師の説く日本国内における神儒仏の一致から、宗演老師は広く世界におけるキリスト教も含めた神儒仏の一致を説いておられるのである。」

横田南嶺「[解説]今北洪川老師と釈宗演老師――『禅海一瀾』をめぐって――」釈宗演『禅海一瀾講話』〔岩波文庫版〕730~731頁)



釈宗演老師のキリスト教への理解は、次のようなところにも見られます。



「大体に於て、人の心は赤心(せきしん)であります。物に対して誰が命令するかは分らないが、自然に同情の心が起る。此心が即ち慈悲であります。宗教の方から眺めて見ますると、世界は広い、人類は多い、宗教も亦従って一つでなく、種々(いろいろ)の宗教があると雖も、世に臨む所以は皆一つである。宗教と云うものを、若し一つの学問的に説明するならば、彼の宗教と此宗教とは、其成り立ち、其歴史、其状態などが異なって居るのでありますから、到底相一致することは能(で)きないのでありますが、若し其宗教の由って起る所以、其本来の精神からいえば、佛教、基督教、儒教神道、乃至回々教(ふいふいきょう)も、恐く約束せずして一致する点が必ずあろうと思います。斯くの如く符節を合するが如くになって居るのは洵に頼母しい訳で、真理は古も今も変って居ない。東でも西でも異なって居らぬと云うのは、吾々が頼みとする所であります。之れを仏教で言えば、佛心とは大慈悲是れなりで、結局此大慈悲に外ならぬのであります。又基督教で言っても、同じこと、愛と言い、loveと云い、皆是れであります。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』322~323頁)



釈宗演老師は、仏教、キリスト教儒教神道イスラム教等の宗教に共通する原理として、「慈悲」を強調します。

そして、仏教の本質自体が「慈悲」であるとします。



「仏教は慈悲を以て主旨とする」

(釈宗演『一字不説』2頁)



釈宗演老師が、仏教の本質、宗教の共通の要素として、「慈悲」という観点を重視された理由は、やはり、シカゴでの万国宗教会議に出席されたことが大きいように思います。



「洪岳自身が残した原稿にも大会中に生じた一種の意識の変化(または戦略の転換)の痕跡が読み取れる。つまり彼が大会の多くの演説の中で使われてきた用語やキャッチフレーズを早速吸収して、それがあたかも自分のうちから沸いてきたかのように、『真理は一なり』『相愛主義』『博愛主義』を唱えるように至ったことである。」

(ミシェル・モール「近代「禅思想」の形成――洪岳宗演と鈴木大拙の役割を中心にーー」49頁) 



「一」の「真理」が「慈悲」ということになります。



「相愛の春光とは、真正の宗教なり。宗教は善美の源泉なり。慈悲の根源なり。」

(釈宗演の演説原稿・ミシェル・モール「近代「禅思想」の形成――洪岳宗演と鈴木大拙の役割を中心に――」50頁)



国宗教大会に出席し、キリスト教等他の宗教の関係者と意見交換をする中で、禅や仏教の枠組を超えた普遍的な事柄を捉えようと努められたのではないかと思います



では、具体的に「慈悲」とは、どのようなものなのか。



布教を意味するという考え方も強いようです。



「『慈悲』は感情であるとともに実践でもあるはずである。ではその実践は具体的にはどのような形態をとるのか。これについては、教えを説くことが最大の慈悲実践であるという考えが強いようであり、通常の意味での実践活動はあまり顕著ではない。

三枝氏は、若干のすぐれた僧侶(たとえば忍性)がめざましい実践活動を行ってきたことを挙げながら、こう指摘する。『しかし仏教教団そのものが、このような実践活動を全面的に組織することも後援することも、一切ありませんでした。それはひとり特定の個人の献身活動のみに委ねられたために、その諸業績は継続性に欠け、一時代の一現象に終わってしまいました。』」

(仲島 陽一「仏教の「慈悲」と共感について」『国際地域学研究第2号』107~108頁)
 


しかし、釈宗演老師は、布教ということではなく、日常の具体的な労働を重視します。



「今日々々を積み重ねて往くのが人間の一生(略)。筆持つ人ならば、筆を持った儘瞑目してそれで可い。(略)算盤弾く人ならば、算盤弾きながら、息を引き取っても、それが本願であろうと思う。ところが切めて死ぬ時ばかりは、坐禅でも組んだまま(略)、立派な死ざまをして、息を引き取ってみたいというような考えでいる者もあります。(略)どちらかと言えば迂闊な考えと言わなければならぬ。人間というものは、自己の職分と共に斃れたら、それで立派なものである。(略)朝から晩まで、孜々矻々として奮闘努力し、向上して止まぬ精神を有(も)っているならば、(略)病気に取り付かれ、七転八倒逆立ちに為って死んだとて別に何の残り惜しいこともない訳であります。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』422~423頁)



元々四摂法や六波羅蜜においても、具体的な利他の行為は、仏道修行上重要とされるのですが、釈宗演老師は、それが人間の生きる目的それ自体であるとまで言うのです。



これも、万国宗教会議に出席し、キリスト教の指導的立場にある人たちと接したことが影響しているのかなとも思うのですが、どうでしょう。



「最後に軽く触れたいのは、私が好んで日本仏教徒の『悪い癖』と言うことです。正直に言って、私はそれを聞くたびに、少し憤慨します。すなわち、利他の話をするときに日本の仏教徒が、ほとんど例外なしに、利他を教化と同一視するということです。そうすると、慈悲の範囲は霊的なものに限られてしまうわけです。仏教には一体人間の物体的ニーズに対する慈悲は存在していないのか。」

(ヤンヴアンブラフト 「仏教とキリスト教田辺元先生」9~10頁)



以前にも、引用しましたが、もしかしたら、釈宗演老師も、キリスト教徒の実践の話を聴いて思うところがあったのかも知れません。



このような労働の重視は、その弟子である釈宗活老師にも引き継がれているようです。



「禅の目的は畢竟如何と云えば、上求菩提下化衆生に外ならぬのぢゃ、(略)之れを措て外に佛教は無いのである、僧俗を問わず、男女を論せず、此の目的を達せんが為めに大乗仏教の道に入るのぢゃ。修禅の必要を感ずるので、例えば遊泳の術を学ぶのも、己れ自身一箇の溺れを救わんが為めのみには非ず。他人の溺るるものあらば、直ちに之を救うことの出来得るように準備し置くので、自利利他両(ふたつ)ながら兼ねてあるのぢゃ、斯う云うと、否吾々は在俗であるものを、下化衆生などと云う必要はないと、云う者があるかも知れぬが、夫れは飛んだ心得違いぢゃ、下化衆生と云うても、経を読んだり、法話を為したりする許りが、衆生済度でない、大乗仏教を修したら、修し得た丈けの得力を、直に仁義道中の上に用いて、士は士として、農は農として、工は工として、商は商として働かすので、(略)是れ皆大乗門中の説法というものぢゃ。」

(釈宗活『悟道の妙味』5~7頁)



釈宗演老師は、更にこのような労働が「悟り」であるとも言います。



「衲(わし)一己の考から言うと、死の覚悟と言う外に別に覚悟はないであろうと思う、我々が日々夜々其境に臨み其事に接し、其時々々、其日々々感謝の念に往して愉快に送っていくのが、それが衲の安心である。(略)
 
息を引取る時迄各々其日々々の務をして、スーと息を引取ったらそれで早や本望である。大悟徹底も即ちそれであると思って居る。」

(釈宗演『快人快馬』181~183頁)



ここでいう「努め」というものがどのようなものかも問題となります。

すなわち、禅の修行をしたことによりなし得ることが可能となった特別な労働という意味かも知れないと捉える方もいるかもしれません。

しかし、釈宗演老師は、先の引用でも見たように、それぞれの職分に応じた労働が人生の目的であるというお話もされますし、次の引用からも、それが何か特別な修行を通してなし得るものだというとらえ方をしていないことがわかります。



「信ずると言うことを二つに分けますると、まあ斯う言うものであろうと思う。解信(かいしん)と仰心(こうしん)の此二つである。(略)

智的要求に応ずるには、聖道門、情的要求に応ずるには浄土門であって、解心は乃ち聖道門に属し、仰信は乃ち浄土門に属するものであります。そこで解信に於てはどうしても多少理屈の説明をしなければならぬが、仰信となると読んで字の如く、仰いで信ずるのであって、初めから神ありと信じ、佛ありと信ずるのであります。(略)

仰信の方になりますと『何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる』で其の中に真理があります。純粋の信はこれで宜しく、何(な)にか分(わか)らぬが、唯有難さに涙こぼする。此一の信仰がありますならば、毎日々々感謝の念を捧げて仕事をする事が能(で)きようと思います。即ち命令を受けたのでなく、我が仕事は我が自身の天分として、働くということになります。そうすると日々夜々働いて居る仕事も、有難涙がこぼるる感謝の念を有(も)ちて、倦むことなく、今日を渡ることが能(で)きようと思います。

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』122~131頁)



先の引用では、「感謝」して「日々の務」を果たすことを「大悟徹底」としていたところ、「神ありと信じ、佛ありと信ずる」だけで、「感謝の念を捧げて仕事をする事」ができるというのです。

ここまでくると、禅の修行の独自の意味というのは、どこにあることになるのでしょうか。



私が考えていることは、釈宗演老師は、実際には、臨済禅の修行のプロパーとされるものを重視しておらず、利他行為としての利他行を重視する方向にシフトしようとしていたのではないかということです。

そうすると、冒頭に引用した加藤耕山老師の話も分かりやすいのではないかと思うのです。



「わたしは宗演老師について一週間ばかりで見性(最初の公案が透ること)したですね。(略)入室(師匠の室に入って問答すること)すれば、公案はどんどん透る。それはゆるいもので、坐禅などは短いほうがいいと言って、三年ぐらいでどんどん上げてしまって、後は学問をやれ学問をやれというふうで、学問のできん者は目もかけんというようじゃった。(略)あんまり早悟りさしてくれるものだから、気にいらなかった。」



通常、臨済禅の修行といえば、参禅における師家の厳しい接説と、長時間のやはり厳しい坐禅とが強調されます。



「見解の出し方によって老師は学人を口汚く雑言罵倒ししばしば素手でぶんなぐるか、竹篦を振るいます。臨済家ではこの室内を「法戦場」というだけに、それは雲衲にとって全く恐ろしい場面があります。」

(西村恵信「済家の風」『禅研究所紀要第18・19号』72頁

「真剣に坐り抜いている人がいました。夜中真っ暗の禅堂で蒲団一枚にくるまって寝ていますが、夜明け近くになるとしんしんと寒気が身をついてふと眼を覚すと、向う側の単に一晩中坐り込んでいる人の影が見えることがありました。」

(前掲73頁)



しかし、釈宗演老師の下の修行では、「公案はどんどん透る。それはゆるいもので、坐禅などは短いほうがいい」というものだったのです。

その理由は何なのか。

臨済禅の修行体系の実質的な効果に対し、思うところがあったのかも知れません。



臨済禅の修行は最終的には、社会において、菩薩の理想を実現する者を生み出すことが目的といってよいでしょう。

これも以前に引用しましたが……。



「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらる時、そしてまた雨が悪者善者のわかちなくこれにひとしく降り注ぎ、あるいは趙州のの石橋が馬・驢・虎・豺(さい)・亀・兎・人間などのすべてのものを渡すと同じしかたにて、大慈悲(karuna)の心を生ずる時に、終了すると考えられる。これこそは人が地上において成就しうる最大の修養である。そしてこれを何人もよくなしうるものではない。しかしながら、われわれが全力を尽して菩薩の理想接近しようとするぶんには、何らの害はない。もし一生にして足らずとするならば、千万劫の未来世に望みをかけてもよかろう。かかる理想のあるものを確固として会得する時、僧は禅堂を辞去し(略)、世界という大社会の一員として、その仲間の中に投じ、実際生活を始める。」

鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』157頁)



しかし、このような人を実際にどの程度生み出せるものなのか。



「正直に告白すると、著者は公案禅というものに対して深い疑いをもった時代がある。それは、公案体系に参じて大事了畢したと称する者について、その行裏(あんり)(行ないの後)を見ると、そこにやはり煩悩の習気(じっけ)(残り香)が、自我の分別が、明らかに見て取れるからである。そこには、いみじくも外国の好人が言ったように、「鼻もちならぬ禅臭」があって、「無我」であるはずの仏道を「大我禅」に落としてしまっている。(略)

公案だけでははたして本当に禅的人格が練出されるのだろうか。世のいわゆる大事了畢底なる人々を見て、私はそうした深い疑いを抱いた。」

(秋月龍珉『公案』333~334頁)



実際に、釈宗演老師も同じようなことを感じることがあったのではないのでしょうか。

そもそも、伝法自体、言葉によっても可能ですし、坐禅の重視や、現在の日本臨済宗系の公案の独参は特殊日本的というべきものであり、必然的なものだとは思われません。



「室町の中期になると、五山をはじめとして京都や鎌倉の名刹では、参禅がほとんど行われなくなった。そのため、開悟の体験を根本とする印証による嗣法はあり得ず、寺を承け継ぐことが嗣法であるとする、いわゆる伽藍法系の嗣法が一般化した。一方、地方の林下では、まだ遍参(へんざん)が行われており、印証による付法も存在したが、その内容は次第に変遷していった。公案の解釈が密教や古今伝授(こきんでんじゅ)などの切紙相承(きりがみそうじょう)の影響を受けて口伝法門化し、口訣の伝授を付法、嗣法とする風潮が生じたのである(こうした禅を「密参禅」、伝授内容を記したものを「密参録」と称している)。密参禅は時とともにいよいよ盛んとなり、臨済宗も林下の禅は全て密参禅となって、ついには五山などにも入り込んでいった(曹洞宗の密参化は、下野〈栃木県〉の大中寺の開山である快庵妙慶(1422―1493)以降、甚だしくなったとされる)。」

(伊吹敦『禅の歴史』243頁)

「『臨済録』を読んでみると、坐禅については一言も言っていないし、公案についても言ってはおらない。そこでは人間の実存の根拠というか、人間の真の自由とは何か、ということを追究しているのである。」

(鎌田茂雄「禅思想の形成と展開」72頁)



坐禅の修行によって得られることもある「見性」、すなわち、自他不二の体感などというものも、坐禅による呼吸回数の減少→血中二酸化炭素濃度の低下→扁桃体の活動の低下という生理的変化の過剰の産物である、統合失調症の自我障害が一時的にもたらされた異常心理にすぎません。

それが人格を保証するものではありません。

翻ってみれば、世の中には、禅の修行などしなくても人体的に優れている人、利他のために働く人はたくさんいるのです。

そうであるなら、生死事大無常迅速です。

禅の修行に使っている時間を利他行為に使う方が効率的です。

何より大乗仏教の修行である六波羅密の第一位は「布施」なのですから、利他行は、菩薩としての具体的な行為でもある修証一如の端的を示すものです。



釈宗演老師は、万国宗教会議に参加し、「慈悲」の普遍性に問題意識を持つと同時に、臨済禅の修行に疑問を感じ、何らかの変革を考えていたのではないか、その変革の資とするために、学人に広く学ぶことを奨励していたのではないか……と妄想するのですが、どのようなものでしょうか。

【参考】
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【参考資料】坐禅修行の非本質性 - 坐禅普及
個人の人生の充足と、他者=世界の調和との一致点としての「慈悲」 - 坐禅普及







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慈悲の行じ方

「最後に軽く触れたいのは、私が好んで日本の仏教徒の『悪い癖』と言うことです。正直に言って、私はそれを聞くたびに、少し憤慨します。すなわち、利他の話をするときに日本の仏教徒が、ほとんど例外なしに、利他を教化と同一視するということです。そうすると、慈悲の範囲は霊的なものに限られてしまうわけです。仏教には一体人間の物体的ニーズに対する慈悲は存在していないのか。」

(ヤンヴアンブラフト「仏教とキリスト教田辺元先生」『群馬大学北軽井沢研修所2004年、8月、19日』9~10頁)




毎度ながらネットサーフィンをしていたら、この一文に触れました。



「日本の仏教徒が、ほとんど例外なしに、利他を教化と同一視する」



少し驚いて違和感を抱きました。

そして、少し反省すると、出家者の方の場合は、こうなってしまうのかなと思いました。

大乗仏教の修行方法である六波羅蜜の中で、一番重要なものは、布施行であり、布施行の中では、「法施」、つまり、正しい仏教の教えを説くのが一番よいとされます。

特に、出家者の方の場合は、利他行をすると言っても、宗教施設の中で暮しているのですから、在家者と異なって、「人間の物体的ニーズ」に応える具体的な行為がなしえないことから、勢い「教化」が利他行となるのでしょう。

お世話になっている団体でも、「新規会員を増やすことが利他行だ。」などと云ったりするのですが、宗教の勧誘が世の中から喜ばれないことは明らかであり、「憤慨」するのももっともだと思います。

今日、宗教家というだけで、聖人君子であると思う人はいないですし、偉そうに語れば、却って引いていくばかりです。

特に、仏教は、無記(=よくわからない)という観点から、形而上学的世界を否定して、私たちが生きる上で、真理を語る教えなど特別なものはいらないのだ、ということを中核とするものなのですから、本来上から目線で語るものではないはずです。



「『わからない(不知)のに、それでもきちんとちゃんと事実として生きてるよね』という、そのこと自体に安心を見出すようなあり方が必要なんです。」

(藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』〔藤田発言〕36頁)



実際に、安住して、慈悲の実践を送る中で、自然と伝わっていくというのが本道、というか、唯一のやり方というべきでしょう。

最近ですと、尾畠春夫氏や、お亡くなりになりましたが、中村哲氏などは、別に偉そうに語らなくても、その生き様を示すだけで、慈悲の人生を送ることの素晴らしさを教化しているのです。



「禅の目的は畢竟如何と云えば、上求菩提下化衆生に外ならぬのぢゃ、(略)之れを措て外に佛教は無いのである、僧俗を問わず、男女を論せず、此の目的を達せんが為めに大乗仏教の道に入るのぢゃ。修禅の必要を感ずるので、例えば遊泳の術を学ぶのも、己れ自身一箇の溺れを救わんが為めのみには非ず。他人の溺るるものあらば、直ちに之を救うことの出来得るように準備し置くので、自利利他両(ふたつ)ながら兼ねてあるのぢゃ、斯う云うと、否吾々は在俗であるものを、下化衆生などと云う必要はないと、云う者があるかも知れぬが、夫れは飛んだ心得違いぢゃ、下化衆生と云うても、経を読んだり、法話を為したりする許りが、衆生済度でない、大乗仏教を修したら、修し得た丈けの得力を、直に仁義道中の上に用いて、士は士として、農は農として、工は工として、商は商として働かすので、(略)是れ皆大乗門中の説法というものぢゃ。」

(釈宗活『悟道の妙味』5~7頁)

「衲(わし)一己の考から言うと、死の覚悟と言う外に別に覚悟はないであろうと思う、我々が日々夜々其境に臨み其事に接し、其時々々、其日々々感謝の念に住して愉快に送っていくのが、それが衲の安心である。(略)

只息を引取る時迄各々其日々々の務をして、スーと息を引取ったらそれで早や本望である。大悟徹底も即ちそれであると思って居る。」

(釈宗演『快人快馬』181~183頁)

「今日々々を積み重ねて往くのが人間の一生(略)。筆持つ人ならば、筆を持った儘瞑目してそれで可い。(略)算盤弾く人ならば、算盤弾きながら、息を引き取っても、それが本願であろうと思う。ところが切めて死ぬ時ばかりは、坐禅でも組んだまま(略)、立派な死ざまをして、息を引き取ってみたいというような考えでいる者もあります。(略)どちらかと言えば迂闊な考えと言わなければならぬ。人間というものは、自己の職分と共に斃れたら、それで立派なものである。(略)朝から晩まで、孜々矻々(こつこつ)として奮闘努力し、向上して止まぬ精神を有(も)っているならば、(略)病気に取り付かれ、七転八倒逆立ちに為って死んだとて別に何の残り惜しいこともない訳であります」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』422~423頁)



各人の能力の特性に応じた「仕事」をしていくことこそが、慈悲の端的であり、それこそが、「大悟徹底」であると同時に、本当に充実した人生の送り方を教える「説法」になるのです。

まさしく「不立文字」であり、宗教団体への勧誘などといった言葉での教化は、本道ではないでしょう。



「人に親切にする、困っている人を助ける、相手を慮る、同情するなど、これらは利他的とよばれる行為である。仏教では古くから、四摂事(法)が言われてきた。四摂事とは,布施(ひとに施し与えること),愛語(親しみある、思いやりある言葉で話しかけること),利行(相手のためになる行為をすること)、同事(他人と協力すること)の4つで、いずれも利他的な立場に立った行為を動めるものである。日々の生活がこのようになきれるならば,人間関係は、そして,共同体のありようは、望ましいものになろうというのである。」

(荻原欒「空観と慈悲」『東京国際大学論叢 商学部編 第75号2007年3月』121頁)



元々仏教には、六波羅蜜や四摂事といった「人間の物体的ニーズ」に応える具体的な慈悲の実践があり、少し調べればわかるはずなのに、なぜ、南山大学の教授でもあるヤンヴアンブラフト氏が、そのことに触れなかったのか少し謎ではありますが。



とはいえ、「有用な働きをなす」という一枚悟りに安住してもよいのかという問題はあるように思います。



「人間は役に立つから生きているのではない。生きていれば役に立つこともあるにすぎない。まして何の役に立つかは、他人でなく本人の志によることである。これを間違うと、事はいとも簡単に、『無用』とされた命の再処理や抹殺に行き着くだろう。」

(南直哉『語る禅僧』87頁)



しばらく前にも、障害者施設の元職員が、傷害者の方の生命には価値がないなどと言って、元の施設に侵入して、入所者の方々を殺害するという痛ましい事件が起きました。

そのような人たちの「再処理や抹殺」をしないことこそが、慈悲ではありますが、かの人物には説得力がないでしょう。



同じステージに立つような気がして怖いのですが、少しでも「こちら」の勢力に属する人が増えるかもしれないという思いで、語るのであれば、障害のある人、重い傷病に罹った人、老いて認知症になった人等介護が必要になった人などは、生きていらっしゃるということそれ自体で慈悲を実践していると思います。



誰もが、介護が必要な境遇になること、そのような状況になったら、社会から無価値なものとして、「再処理や抹殺」される類のことになるのではないかと、不安を抱きながら人生を送っています。



介護が必要になった人などは、ただ生きているだけで、そのような境遇になったとしても、きちんと生きて行けるのだという希望を、介護が必要ではない人などに与えてくれるのであると思います。



癌等の重病にかかった人の体験記などがベストセラーになったりすることがありますが、それは、将来に不安を抱いている人たちに、そのような境遇にどう向き合ったらよいのか、闘病するのもよし、受け入れるのでもよし、それぞれの人ごとなのでしょうけれども、その生き様、それ自体が、見通しと生きる希望を与えてくれるからではないでしょうか。

滅多なことは言えませんが、どんな人でも、お亡くなりになる直前のあり様には、それが、泰然自若していようが、苦吟の声を発していようが、感動を禁じ得ないものがあります。



私のような者でも、死が近づいたときには、人を感動させることができる可能性があるのだと思うと、衆生本来佛也の端的という気がします。



死を「成仏」と呼ぶのも間違っていないのかもしれません。





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あるかどうかわからないことは、ないものとして行動するしかない

「ゴーダマ・ブッダによると、当時の思想界で行われていた種々の哲学説、宗教説は、いずれも相対的、一方的であり、結局解決し得ない形而上学的問題について論争を行っているために、確執に陥り、真理を見失っているのです。(略)イエスともノーとも答えなかったことが、実は一つのはっきりした立場を表明しているのです。なぜ答えなかったかといいますと、これらの形而上学的な問題の論議は益のないことであり、真実の認識、正しいさとりをもたらさぬからであるというのです。
 かれは種々の哲学説がいずれも特殊な執着に基づく偏見であると確かに知って、そのいずれにもとらわれることなく、みずから顧みて、真の人間の生きる道をめざしました。」

中村元『原始仏典』20~21頁)



 上座仏教の輪廻説を信じ込み、「輪廻しないことも、死なない以上、確かめられていないのだから、輪廻説を否定すべきではない。」という人たちに言うことができるのはこの程度のことでしょうか。



 私たちの認識能力には限界がある。

 したがって、ないと思っていることについてもある可能性がある。

 だから、輪廻することを前提として、行動することも合理性がある。

 けれども、すべてのことはある可能性があるのであるから、そんなすべての事態を想定して行動することはできないだろう。

 だから、あるかどうかわからないことは、ないものとして行動するしかないだろう。

 釈尊が、何が本当かわからない形而上学的な問題について、無記としたことが、その問題に関する存在を否定するものとして扱うことになる理路はこのようなものだろう。



釈尊は霊魂の存在を認めていませんから、その立場から輪得思想は生れてきそうにもありません。」

(田上太秀『『迷いから悟りへの十二章』38頁』



 あるかどうかわからないこと、そもそもないと思っていることについても、をすべてある可能性があるとして行動すること無理だろう。

 宗教的な観点でいえば、ユダヤ教が正しく、キリスト教が正しく、イスラム教が正しく、ヒンドゥ教が正しく、上座仏教が正しく、大乗仏教が正しく……それらのことがすべて正しい可能性があることを前提として生きていくことは不可能だろう。



 しかし、不確かな世界に生きることが不安であり、確かな「真理」を欲していて、やっと「真理」だと思い込めるものが見つかったと思いたい人の耳にはとどかないだろう。

 
 
 ちなみに、日本テーラワーダ協会のスマナサーラ長老は、スリランカ出身の方ですが、最近になって、スリランカテーラワーダの人たちは、カースト制を厳守していることを知りました。



「ここで注目しましたのは、そのカースト制度、大変厳しい。それで多分、今日は見えてないのですが、短大の能仁先生は仏教がスリランカに伝わる前の頃からヴァルナ制を仏教では認めていてというふうな可能性も示唆されています。同じ仏教と言っても、バラモンとクシャトリアの仏教と、それからヴァイシャとシュードラの仏教はちょっと説く内容が違っていてもいいのだというような話があるということです。(略)概ねインドでは、仏教はカースト制を受け入れないという立場だったのではないか、スリランカに来てからカースト制が非常に厳格に守られるようになったのではないか。そういうことに対して反発も随分起きている。」

(中村尚司「東南アジア上座仏教の現状と課題」『2020年度第1回国内シンポジウムプロシーディングス「アジア仏教の現在Ⅰ」』8頁)



 テーラワーダヒンドゥー教は両立できるものなのでしょうか……謎。





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煩悩即菩提

「本来の仏教では、『愛』という語は、いつも『憎』とウラハラの意味をもつ語として用いられ、あまりよい意味では使われなかった。『愛』は常に、その裏に『憎しみ』を秘めているものとして、仏教では否定的に見られてきた。そのよい例が、釈尊の『四諦』の法門にいう『渇愛』すなわち“喉が渇くような強い欲望(愛着)”である。臨済禅師も言う、『君たちの愛(愛着)の一念が、湿った水となって君たちを溺れさせる。』(『臨済録』「示衆」)」

(秋月龍珉『日常の禅語』14頁)





上座仏教と大乗仏教との根本的な相違は、世界(目の前の現象)の現実化に対する態度にあると思います。



上座仏教では、世界を現実化しようとすることが不幸の始まりであると捉えます。

目の前に現れる現象は、すべて変転するものであり、それにもかかわらず、それを実在するものとしてしまうことにより、そのことに対する囚われが生じる。

いつか現象は、変化し、実在すると思っていたものが滅するとき、滅する現象と実在を欲する意志=愛着との矛盾に苦しむ。



大乗仏教では、世界を現実化しようとすることを慈悲の現れであると捉える。

目の前にある現象を実在するものとして、存続させようとする。

草花を育て、愛する人を養い、愛する人との間の子供を育て、病んでいる人はみすごすのではなく、なんとか看病し、出家者の生活を維持する等々。



日本の上座仏教の実践では、慈悲の瞑想がよく行じていますが、これを苦しいと思う人もいます。

およそ仏道修行にはまりこむ人は、私を含めて、世間の多数派の人に比べて、どこか精神的な問題があることが多いものですが、上座仏教の実践者の方の多くは、言動からかなり重い精神的な問題を抱え、社会に適応することが困難と推認される(知的水準が平均以上の発達障害の人が理性の力によって、なんとか表面的には「普通に」振る舞うのと同様に)ことから、自分のことに精一杯で他の人を思いやることに困難が生じ、慈悲を瞑想しながら、慈悲の実践をできていない矛盾を感じることがその理由の一つではないかと思います。

けれども、もっと根本的には、上座仏教では、世界を現実化することを否定しようとするのにもかかわらず、慈悲の瞑想は、世界を現実化を継続させようとすることをイメージするものであることから、そこに矛盾を感じるのではないかと思います。

上座仏教の理論的問題点は、ここにあるのではないかと推測しています。

生きているからには、世界を肯定してしまっているのであり、それを否定しようとする態度には無理があるのではないでしょうか。



世界を現実化し、その存続を望みながら、その中にある個物が滅する自体をどうとらえるべきでしょうか。

正直、余り考えすぎなくてもいいのかなと思ってもいます。

滅したときには、つらいなと思っても、私達は、往々にしてきちんと受け入れる、処理することができるからです。

グリーフケアに携わっていると、身近な人の不幸な死にとても傷ついた人によく会いますが、同時に、どうして、そこまで傷つくのだろうかとわからないことも多く、そのように傷つく人がいるということが学びであることも多いのです。

そういうものである以上、私達は、往々にして、人の死を含めた滅する事態もきちんと受け入れて何ら問題がないように思います。

元々、不確かな世界、存続するものも変転し、滅する世界のなかで、私達は、現に生きているのですから、基本的に、滅する事態にもきちんと対応できるのです。



敢えて理屈付けをすると、私達は、実は、滅する事態も愛しているのです。

滅することも不確かな現象であり、滅することを夢、幻としてもよいのです。

しかし、滅するのが苦しいのは、滅することを現実化しているのです。

そして、現実化する以上は、私達は、滅する事態を愛しており、ここに、私達が滅する事態を受け入れる素地があるのではないかと思います。





「元来此の煩悩と云っても、決して他物ではない。迷って居る間こそ、煩悩は憎むべき仇敵であるけれども、一度それを裁断して、無心の境界になれば、その煩悩は却って菩提の種たりしことが解って来るのであります。
 田の草を取って其まま肥(こやし)かな
と云う句があるが、煩悩そのまま菩提、生死そのままが涅槃たることが知られます。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』239頁)




上座仏教では、否定されるべき煩悩として捉えられる世界を現実化しようとする意志。

この意志そのままが慈悲の基礎であるとするのが大乗仏教です。

これを称して、煩悩即菩提というのでしょう。






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直指人心、見性成仏

「青年は老師の目をまっすぐに見つめて、重ねて尋ねた。

『僕とは何ですか』

 老師は、そこで言われた。

『君は今日ただ今から自分のことを勘定に入れないで、他人のために一所懸命に働いてみよ。そうして、他人のために働いた結果、自分が『よかった、幸せだった』と感じるような自分が出てきたら、私はそれがほんとうの自己だと思うがなあ』」



(秋月龍珉『日常の禅語』191頁)





元々「見性」という言葉は嫌いでした。

通常、自他不二や不二不一の体認を見性と言いますが、そのような精神的満足を求めることは、未来における幸福を目指すものであり、未来における幸福を目指すことによる不幸を防ぐという仏教のアイディアと矛盾する上、所詮は異常心理にすぎないものであり、適切な認識を得たり、慈悲の実践をすることとは結びつかないと思ったからです。





「私は若い時に徹底的に坐禅修行をしようと思っていましたので、臨済の道場へ行っておりました。あそこでは全員が、なんとかして見性しようという一つの雰囲気に、ひたりこんでしまっていました。そして見性するためには、自分の身体なんかはどうなってもいいというような熱気に燃えていました。つまり見性のためには手段を選ばぬといった調子でした。後から考えてみますと、これは別に考えなくともわかることですが、本人は真剣な求道人としてどうしても自分は悟りたい、そのためには自分はどうなってもよいと、本当にそのように思ってしまうものです。然し、結局は、それはただ自分のものが欲しいということだったのです。つまり満足感の追求ということだったのです。それでどうしても安心決定したいというのでした。安心決定が欲しいというのは、実は自己満足の追求に外なりません。」

(酒井得元「永平広録について」7~8頁)





よく自利利他などと言われますが、自利の次元において重要なことはーー実際には、利他においても同じことですがーー、私達に特別なものはいらないということです。

特別な「真理」や特別な「救い」などはいらない。

なぜなら、そんなものがなくてもきちんと生きているのだから!



だから、仏教はなく、禅もありません。

不立文字です。

語った時点で、それは「特別なもの」になってしまうからです。

「見性」しようとすることも同じことです。

何か「特別なもの」を未来に求めること。

道元禅師が見性を求めることを否定したのも当然です。



理念の問題だけではなく、生理学的にも、いわゆる見性体験を求めることは疑問です。




坐禅(只管打坐)の主要な生理学的効果の機序は「呼吸回数の減少→血中二酸化炭素濃度の上昇→セロトニンの分泌→扁桃体の活動低下→不安感の解消・ま性の回復」と思料されますが(高田明和『一日10分の坐禅入門』(142~143頁)、金沢大学「感情の高ぶりによって脱力発作が引き起こされる神経メカニズムを解明!」(※1))、扁桃体の活動低下は統合失調症の特徴であり(放射線医学総合研究所「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」(※2))、その症状の一つである自分と外界の境界が曖昧になる「自我意識障害」(杉原和明監修『はじめて学ぶ人の臨床心理学』221頁)が見性体験(生理学的には、極端に扁桃体の活動が低下し、一時的に統合失調症の自我意識障害になるのではないかと思います。)における「自他不二」の感覚であると思料されます。

したがって、見性体験を目指すことが本当に望ましいかは慎重な工夫が必要であると考えています。


(※1)

https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/04/170411.pdf

(※2)

https://www.jst.go.jp/pr/announ ce/20100224/index.html



以上のようなことから、私は、「見性」という言葉が嫌いでした。



けれど、最近少し変わってきたところがあります。



「見性体験」などというと何かスピリチュアルな感じがして気持ち悪いのですが、少し違う捉え方が、あるのではないかと考えてきています。



私は、世界を愛している。

そういう心を持っている存在である。


酒井老師などは、仏教や禅が語られる際に出てくる「心」を世界一般まで拡げるようにおっしゃいますが、素直に精神世界的な意味の「心」でよいように思っています。




「全てが真実であって、真実以外の何物もあり得なかったのです。この事実が心ということであったのです。したがって心は決して精神的なものでも、意識的なものでもなかったのです。つまり、この宇宙全体の真実が心であったのです。」

(酒井得元「永平広録について」23頁)




このような考え方も好ましいものとは思っています。

時間と空間を認識の枠組みと捉えるカント哲学、主観によって初めて客観的世界が区分されるとする構造主義

世界と自己とが関連しあった一体化したものであるということは、学生の頃、食事、排泄と、肉体との関係を考えて、納得していました。

山口那津男先生は、この点を丁寧に論じられています。



「自分が生きているのは、言うまでもなく色々な食物を摂取することによってである。たとえば数時間前に食べたビフテキが消化器官によって吸収され栄養となって体内をめぐり、身体のさまざまな細胞を構成している。その時、自分の身体はどこまでが自分の身体であり、どこからが牛なのであろうか。われわれはもちろんビフテキ以外にもさまざまなものを食べる。人間は全ゆる生物の中で最大の雑食動物であると言われる。事実人間は、動物や植物はおろか、石油のような鉱物までも食用に供する。要するに、人間はあらゆるものを食することによって、彼の身体のあらゆる隅々までそれらのものによって構成されつくしている。自分の身体のどの部分をとってみても、これはもともと自分のものだ、と言いうるものは一つもない。自分の身体はすべて自分以外のものででき上っている。」

(山田邦男「自己存在についての一考察一禅の立場に即してー」『人間科学論集一五号』4頁) 




世界は客観的に区分されているのではなく、意識によって区分されているように見えるだけであり、心と世界を分けるものはなく、心は世界の構成要素にすぎない。

こんな世界観も好ましく思います。



けれど、私は、心を通してしか世界と接することができない。

心をまず第一のものとして世界に接せざるを得ない。

世界は一つであると同時にそこには個物が存在するものとされ、私も、世界の中に、この意識と共に現れ出てしまったのです。



人間の悩み、苦しみ、迷いは、世界に対する個別的な「心」があるから生じます。

だから、何らかの形で「心」を否定する考え方もあります。

上座仏教はその典型でしょう。

しかし、私達が、悩み、苦しみ、迷う理由は何でしょうか?



私達の悩み、苦しみ、迷いの主要な原因は人間関係です。

自己の利益と他者の利益との関係がうまく調整できないとき、私達は悩み、苦しみ、迷います。

しかし、このことは、私達が他者へ配慮する存在であることの証でもあります。

他者だけではありません。

そもそもが私たちは世界を愛しているのです。

世界の存在は不確かで、夢だといってもよいはずなのに、私達は、世界を「現実化」して、その現実性を尊重して生きています。

人生を送るということは、世界を愛していることです。



時に、私たちは、世界や人生に疑問を持ちます。

なぜ、こんなに苦しいのか、何もいいことはないし、いいと思うようなことがあったとしてもはかなく消えるものであるし、生きることに価値などないのではないのか?

世界や人生が与えてくれないことに疑問を持つことがあります。

しかし、このようなものは問いを発すること自体が一種の転倒なのです。



私たちの目の前にある世界は不確かなものであり、私たちが、自分の意志で確かなものとしているのです。

私たちの意志、すなわち、愛が世界を現実化させているのであり、私たちが世界に与えるのであって、世界から与えられるのではない。

私たちは、世界を愛し、現実化するものであり、世界に対し、庭師のように愛情を注ぐ存在という意味で世界の主というべきものです。

禅門において、随処に主となるとはこのようなものでしょう。


世界から与えられることを求めてしまう理由の一つは、私たちは、それぞれの肉体を通して世界に与えるしかなく、世界に与えるためには、肉体が必要であって、肉体の保存のために、肉体に利益を帰属させる必要があることに由来するのではないかと思います。



「我々は先ず體中の小さな蟲一匹として、即ち社会の一員として此健康を保ち、そうして常に怠らずして努めて以て病気に打勝ち、常に健康にならなければならぬ。健康になったならば、更に一層勇気を鼓して働こうというのが、それが一種の宗教的信仰であろうと思う。」

(釈宗演『快人快馬』185~186頁)



「社会のために勉強し、社会のために生きる、道のために飯を食い、道のために茶を飲むというように、道のためにするのでなければならぬ。道のために尽さねばならん身体だから、お互い不養生するわけに行かぬのである。自分のだけのためならどうでもよい。」

(沢木興道『禅談』313頁)



このような愛する目的での個々の肉体への利益の蓄積を目指していたはずなのに、いつしか、手段と目的を入れ違えてしまって、肉体への蓄積が目的となってしまったのが利己主義の不幸なのだと思います。


何やら官僚制の不幸に近いものがあります。



「官僚制は,組織の目標達成を助けるために発生する。しかし,しばしば組織の職員は,組織の利益とは異なる彼ら自身の利益を有するようになる。このような職員は,官僚制の役割を堕落させ,彼・彼女ら自身の役目と身分を高めるのである。」

(ロバート・D・サック(林 修平、山﨑 孝史訳)「人間の領域性―その理論と歴史 第4 章 カトリック教会」『空間・社会・地理思想 11号』111頁)





私達は、生まれ落ちた直後、その親に子育てをする喜びを与え、十代前後頃までは、純粋な部分が残るのですが、その多くは、自己への蓄積することが重要なものであるという観念を抱きがちになります。

そして、世界を愛するために産まれ、現に世界を愛しているのだということを忘れていく。



見性とは、私達が世界を愛しているということに気づくことなのではないかと思います。



私達が生きている、その当然の前提が、夢であるといってもよいような不確かな世界を現実であるものとして、尊重して愛することを前提として成り立つものであることに気づくこと。

生きている以上、目の前に展開する世界を愛しているのだということに気づくこと。



余りこんな考え方に出会ったことはありませんが、見性成仏について、「悟りとはその清らかな本性を認識し自覚することにある」という捉え方である(石井清純『禅問答入門』22頁)という典型的な定義にも整合的であると思います。



生きている私達にとって生きていることは当然のことであって、生きていることが世界を愛していることを前提としている。

「生きている前提」が「本性」としてあることであり、その「本性」は、「愛している」、すなわち、「清らかな」もの。

その本性は、生きている以上、当然にあるものであって、後天的に獲得されるものではない。

今、実際にあるものとして自覚すること。



与えられるのではない、与える存在であるとの自覚をもつ。





澤木興道老師が



「サトリとは損すること。マヨイとは得すること’

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』142頁)





とおっしゃるのも同じ消息でしょう。



私達が愛する存在であるという自覚を持つ=見性することは、そのまま、愛する存在=仏であることおを前提とします、すなわち、「成仏」です。





「我等はもと仏とちっとも違わぬ凡てを救うに足るべき本能力を持っておる。法華に、若有聞法者無一不成仏とある。成仏ならざるものはないと読めば、本来人(ほんらいにん)ということになる。成仏せざるはなしと読めば、後天性になる。仏になるのではない。本来仏であるので、知らぬ者が知らぬまでじゃ。」

(飯田欓隠『通俗禅学読本』2~3頁)





「凡てを救うに足るべき本能力」こそが愛する心ということに当たると思います。



「直指人心」とは、このような「愛している心」を示すものです。

とはいえ、「愛する心がある」と言うだけで、実際に、私利私欲丸出しで生きているのでは、説得力がありませんし、何よりも、自分自身にとって意味がない。

言葉は、指差すものにすぎないのですから、「愛している」ことを自覚して、「愛する人生を実際に送ること」といってよいのだと思います。



愛するといっても、私達は、それぞれが生まれいでた肉体を使って愛するのですから、できることには限界があります。

そこには、当然のことながら優先順位があります。

それぞれの肉体も、世界の一部であり、自己の肉体の保全を図ることがまず第一でありましょう。

ですから、利己主義者のようなあり方も、世界の愛し方の一つの現れです。

また、どんなに博愛主義的な人でも、何をするにせよ、まず、自分の体を養生しなければならないのですから、利己主義的な面のない人はいません。

何よりも、誰かに、世界にやさしくしたいというのも自らの欲望に従ってやる利己主義の現れです。

誰しもがどこかでは利己主義者であり、それを非難することはできません。

禅門でいうところの是非言う人は之是非の人というものです。

自覚がある者としてできることは、世界全体があるものとして生きている以上、世界全体に対する愛があることを示す生き方をして、純粋利己主義者というべき人たちにより幸福な……より利己主義に合致する!……生き方を示すことです。



生きている以上は、愛しているのであり、特別な教義や教理はいりません。

愛するあり方は、言葉で語っても伝わりません。

先に述べたとおり、語る本人が俗な意味で私利私欲の生活を送っているのなら、説得力がないからです。

逆に、アフガニスタンで医師として活動したり、灌漑事業などに携わっていた中村哲氏などは、その活動それ自体が望ましい生き方を語り、人の感動を、同調を呼びます。

ですから、伝える上では、言葉で語る必要はありません。

これらのことを称して、不立文字、教外別伝というのでしょう。





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不確かな世界を愛している

「(形而上学的な問題について)釈尊は答えられないときには、沈黙を守る。そしてその沈黙に対する執拗な追及があり、まれに釈尊は適切な比喩を、相手または弟子に示す。(略)
『(略)世界の常・無常などをいつまでも求める人は、解答の得られないあいだに死ぬ。世界の常・無常などにかかわりなく、生・老・病・死の苦はあり、わたくしはその制圧を説く。それに対して、現実の実践・さとり・ニルヴァーナ(ニッパーナ、涅槃)に役立たないから、世界の常・無常などを、わたくしは説かない。わたくしの説かなかったこと、説いたことを、そのとおりに受持せよ』(要旨)という。
(略)形而上学論議は、それに耽る人にとっては、たしかに興味は尽きないであろう。
 しかしそれは、他の原理による別の形而上学とほとんどの場合に論争を引きおこし、しかもその論争はどこまでもつづいて決着はつけられず、所詮は知のための知の饗宴にすぎなくて、多くは不毛に終わる。それはまた、現実そのものにはなんのプラスにもならず、まして実践からはるかに隔たってしまう。」

三枝充悳『仏教入門』72~73頁)



 釈尊の考え方として伝わるもののうち最も大切な考え方は無記であると思います。

 無記については、形而上学的な議論についてよく言われますが、よくよく考えてみると、形而上学的な議論に止まらず、私たちが認識しようとすること、全てに当てはまることではないでしょうか?

 私たちの認識能力には、限界があります。

 私たちが的確に認識をしているといえるためには、その認識能力が適切に機能していることを認識する必要がありますが、機能を認識する能力が適切に機能していることを認識する必要が生じというように無限に退行せざるを得ない以上、私たちには、的確に何かを認識することはできないのです。

 したがって、私達の認識している世界も、全く不確かなものです。

 仏教の基本的な考え方とされる諸行無常諸法無我、そして、一切皆苦というのも、このような不確かさに由来するものでしょう。

 すべての存在は、不確かなものとしか認識できない。

 したがって、それらのものにとらわれる必要はない。



 私達が直面する世界は不確かに変転していきます。

 不確かに変転していきますが、どうもそこには一定の法則がありそうです。

 しかし、法則があるらしいのだけれども、実際に、どんなことが起きるのかは、様々な要因がかかわっているようであり、したがって、一定の法則はあるはずなのに、どのように世界の見え方が変転していくのかの予測はつかない。

 いわゆる「衆縁和合説」は、そのことを言い表しているように思います。



「すべて創造された結果はすでに原因ののなかにおいて予定・予想されたものでなく、まったく不定の結果である。だからこそ世間は千変万化すると言われる。なにが生まれ、出現し、発生するかは、おそらく神でさえ予想できない。」

(田上太秀『「涅槃経」を読む』64~65頁)



 世界のことについて十分予想できないことに対し、不安を持つ人は、何らかの形で「真理」を求めようとする。

 「安心決定」するために。

 しかし、このような「真理」を求めようとする努力は徒労に終わる。

 というのは、私達の認識能力には、限界があるから、「真理」は求めようと思っても求め得ない。

 このように求め得ないということ自体が、真理であるというほどに。
 
 色々な宗教……上座仏教等ほとんどの仏教の宗派を含めて!……は、真理を問題とし、自らが真理であると主張しますが、それには無理があり、無理があるからこそ、そこには、排他主義、教団機構による官僚制、現状維持による堕落、他宗教との対立・抗争等々の不幸が生じがちです。

 幸福を目指して「真理」を求めたはずなのに、矛盾する結果になるという不幸を生じさせる。

 

 「真理」や「安心」を求めないことこそが、いわば、「安心」を実現する「真理」なのです。



「力がないと、この聖を愛し、凡を憎むと云うことになり易い。(略)とかく人間と云うものは、腹のなかに意必固我の執情を持って居て、多少修行をしたものでも、やはり意必固我の執情や悟を愛して、迷いを憎むと云う、凡情が失せない。」

(釈宗活『臨済録講話』233頁)



「仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業
 菩薩を求むるも亦た是れ造業
 看経看教も亦た是れ造業
 仏と祖師とは是れ無事の人なり
 (臨済録『示衆』)

(略)

有馬 (略)「地獄」は自分で造っているんです。悟れない者が仏に頼り、経典に頼り……そうするとどんどん地獄に落ちていくよ、ということです。
 地獄というのは煩悩の凝り固まった世界。「煩悩即菩提」――煩悩を裏返しにしたら菩提なんです。菩提っていうのは悟りの境地。それが実は煩悩と同じもんやと言うてる。だから、それを求めたらアカン、というただそれだけの話です。
――禅とは修行して「悟り」を求めるものではないのでしょうか。それなのに、菩薩を求めても、仏典を読んでも「地獄」から逃れることは出来ない、というのですか。
有馬 いや、そうではなくて、その行為自体が「造地獄」やと言うとるんです。書いてある通りです。仏を求めること、法を求めること、これが「造地獄」の業と。」

(有馬賴底『『臨済録』を読む』188~189頁)



 そもそもが私達は、何が「安心」なのか、何が「真理」なのか、そんなことは全くわからなくても、今、確かに生きているのであり、生きる上では、「安心」や「真理」など全く知っている必要はありません。
 
 薔薇は、自分がどんなに美しく咲いているかわからなくても、きちんと美しく咲いています。

 生きる上では、知っている必要などはないのです。
 


 衆生本来仏也。



 私達は、最初から、この不確かな世界を不確かなままに生きる力が備わっているのです。



 だって、今、きちんと生きているではないですか!

 「真理」など全くも知らず、いつも、悩んで、迷って、苦しんで……不安で、まるで「安心」などないのに!



 私達は、不安でも、悩んでいても、迷っていても、苦しんでいても、いつもきちんと生きています。

 ですから、不安や、悩みや、迷いや、苦しみは、私達が生きるに当たって何ら障害になるものではありません。

 私達には、最初から、不安なまま、悩んだまま、迷ったまま、苦しんだまま、この不確かな世界を不確かなままにきちんと生きる力が備わっているのです。



 「安心」や「真理」を、単なる妄想にすぎない彼岸にあるものを求めてしまうのは、ちょっと気弱になってしまっているだけです。

 不安は、脳の片隅で起きている些細な現象であり、圧倒的に確かなことは、今、現在、生きているということです。


 
 禅の世界で、目の前の現象に徹せよということが強調される理由は、現象の背後に「真理」を求めようとする態度に問題意識を持つからでしょう。




「黒いものを黒いといい、白いものを白いと云うのが禅の本領である。柳は緑り花は紅い、烏はかあかあ、雀はちうちう、みんな同じ道理である。此の道理に徹底した人を悟ったと称して居る。
 禅はどこまでも説明のできぬものである。何等の前提なしに、すべてを断定する。それ自からが其れ自身を証明する、決して他の弁証を待たない。天は天なり、地は地なり、それで万事を尽しておる。此処を言詮不及とも、意路不到とも云う。
 私どもは何の為に生れたか、何故死ぬるか、這んなことは問題にならぬ。何の為でも、何故でもない。生れたから生きておる、死ぬから死ぬるのである。それ以上何と理屈をつけても詮無いことである。生を生とさとり、死を死とさとれば、それでよろしい。人生のすべては斯くして解決されるのである。」
(神保如天『従容録講話』序1~2頁)


 
 とはいえ、目の前の現象が「真理」かというと、実は、これも不確かなものです。
 
 日常生活を送っていると、実は、「現実」と思えたことが、勘違いであったという経験をすることが少なからずあるからです。

 また、そもそも、目の前に起きている「現実」としか思えない「現象」が、実は、夢に過ぎなかったという可能性も否定できません。

 禅門では、目の前の現象が真理であるということがよく言われますが、実は、目の前の現象が真理であるかどうかすら、全く不確かなものなのです。


 
 目の前にある現象は、不確かであるはずなのに、私達は、この目の前にある現象を現実のものとしています。

 これは一体どういうことなのでしょうか。


 
 目の前の現象が夢でもよいわけです。



 夢であるから無視してもよいわけです。



 夢であるから目の前の現象に攻撃を加え、破壊の限りを尽くしてもよい。



 でも、どういうわけかそういうことをしない。


 
 私達の意図的な行為は、意志によって起動されます。

 夢であることを前提とする行為を私達がしない。

 逆に言えば、目の前の現象を現実のものとして行為するということは、とりもなおさず、私達が、目の前にある現象を現実にしたいという意志があるからです。



 目の前の世界は、私達が、目の前の現象を現実にしたいという意志によって、現実の世界になっているのです。


 
 生きる以上は、私達は、目の前にある世界を現実のものとして成立させたいという意志をもっています。

 目の前に世界、空も、森も、山も、川も、風も、虫も、ビルも、橋も、犬も、猫も、親も、同僚も、そして、愛する人も、すべての目の前にある世界について、これを現実化したいという意志を持っているのです。

 

 目の前にある不確かな世界を現実のものとして成立させたい、この気持ちがアガペー的な愛というものでしょう。


 
 目の前にある不確かな世界。

 誰もが、これを現実の世界として生きています。

 私も、あなたも、政治家も、経営者も、官僚も、農林漁業者も、職探しをしている人も、専業主夫・婦も……犯罪者も!

 誰もが世界を愛しています。

 

 ただ、往々にしてそのことを、そのことを忘れてしまいます。

 人生の不幸の原因は、自分が世界を愛しているという生きる上での根本事実を失念してしまっていることです。

 

 最初から愛しており、今現在も、愛しているのですから、もっと素直に愛すればよいのです。

 
 
 誰もが、不確かな世界を愛しています。


 
 もっと素直に愛していけばよいのです。






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【参考資料】“現に存在する”苦しみには問題がない

「明治から昭和にかけて約半世紀近く建長寺派の管長をつとめた菅原時保(じほう)老師は『日面仏,月面仏,訳すれば,”ああ死にともない,死にともない”』と提唱されている。

 近代の傑物であった飯田欓隠老師は,痔の手術をして,「痛い痛い。何にも無いというのは嘘の皮だ」と,わめかれたという。鈴木大拙先生に筆者が最後にお目にかかったのは,発病前日の午後から夕方にかけてであった。その翌朝から激しい腹痛を訴えられ,「痛い,痛い。この痛いのはかなわん」と叫びつつ,次の日の朝早くあっけなく世を去られた。死因は絞扼性腸閉塞という,まるで腹の中の交通事故のような病気だった。

 (略)

山岡鉄舟も胃癌で苦しんで死んだ。辞世の句は,「腹張って苦しきなかに暁け烏」というのであった。弟子たちは,鉄舟先生ほどのかたの句として恥ずかしいと考えて内証にしていたのを,おくれて京都から来られた師の滴水和尚が見て,「さすがは鉄舟さんだ」と言って,改めて発表させられたという。」

(秋月龍珉『日常の禅語』115~116頁)


同じ趣旨のものは


「病の時は病ばかり、只管病苦じゃ。病者衆生の良薬なりと仏も云うた。病によりて永久の生命が得らるるからじゃ。(略)死の時は死ぬるばかりよ。死也全機現(しやぜんきげん)じゃ。只管死苦じゃ。この期に及んで安心を求むるとは何事ぞ。只死苦ばかりの所に大安心の分がある。全機現とは宇宙一枚の死じゃ。死者の世界邪。死によりて宇宙を占領するともいえうる。元古仏は生死は仏の御命なりともいわれた。死を厭うは仏を殺すなりともある。」

(飯田欓隠『通俗禅学読本』24~25頁)


「私が死ぬとき、死に行く瞬間、私が苦しんだとしてもOKです。それは苦しみのブッダだからです。そこになにも混乱はありません。誰もが、肉体の苦しみ、精神的な苦しみでもがいているかもしれません。それはかまわないのです」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』12頁)



「禅坊さんの死去は、かならずしもいつも端然とか安然とかいうものでなかった。翠巌の真和尚というのは、その入滅するにあたって、病気のために、はなはだ苦しみ悩んだ。藁を地に敷いて、その上で輾転反側して少しも休めなかった。」

(鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』126頁)



苦を受け入れるだけだと小乗仏教的な消極ですが、同じ消息を大乗仏教的に積極にすれば、コレ


「われわれがこの苦の世界に生まれ生きているのは、愛するためであり、働くためであって、苦から逃れるためではない。」(松本史朗『仏教への道』146頁)





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